雨隠り
だいすき
あなたがだいすき
そんなふうに、雨が音を奏でてる。
聴こえるのは、あたしの心。
「そんな端近にいると濡れますよ、珊瑚」
突然の雨に降られて駆け込んだあばら屋で、法師と退治屋は雨宿りをしている。
「平気。雨足はきついけど、風はそんなに強くないから」
荒れ果てた狭い小屋の中、弥勒は壁際に静かに座っていたが、板戸もない、ぼろぼろの簾の合間から、珊瑚は外の様子を窺っていた。
「足許が濡れていますよ。どうせ濡れるなら、私と」
そんな法師の色めいた戯れ言にはだいぶ慣れた。
珊瑚は無言で土間から床の上にあがると、弥勒の隣に腰を下ろす。
「法師さまは、雨が嫌い?」
なんとなく気になったので、何気ないふうを装って問うてみる。
そんな珊瑚に直接は答えず、
「おまえは好きか?」
弥勒は逆に尋ね返した。
「……うん。好きって言えるかな」
立てた膝を両手で抱え、遠くを見るように珊瑚は答える。
「ずっとずっと小さい頃。あたしが小さいから、琥珀はもっと小さい頃。里でさ、雨の日はよく留守番をさせられた」
珊瑚は壁に立てかけた飛来骨のそばで丸くなっている小猫に視線を向ける。
「大人たちには仕事があるから、あたしが琥珀の面倒を見て、あたしたちのそばにはいつも雲母がいてくれた」
朽ちた簾が静かに揺れる。
雨の音は永遠かと思えるほどの静寂を奏でる。
「だけど、外に出られないのって退屈でさ。ぼうっと雨の音を聴いてたら、あるとき突然、雨があたしに何かを伝えたがっているような気がしたの」
「雨が?」
「うん」
隣に座る法師を見て、珊瑚は口許を微かに緩めた。
「大好き。大好き、って。その頃、すでに母上は天の人だったから、あ、母上の声だ、って思った」
「……」
「だけど、里があんなことになって、雨が嫌いになった」
自分を見つめる弥勒から、珊瑚はそっと顔を逸らす。
「雨はもう無くなってしまった温かい場所を思い出させる。それに、雨の日って、たった独り世界から切り離されたみたいな気がした」
弥勒の瞳が、ゆら、と揺蕩った。
「ねえ。法師さまも、そんなふうに思ったこと、ない?」
珊瑚の視線が床に向いているのを確認し、法師はゆっくりと口を開いた。
「雨は──下界のあらゆるものの穢れを洗い流そうとしているように感じることがある」
彼の声は穏やかだったが、珊瑚にはそれがとてつもなく淋しい音に聴こえた。
「旅をしていて、雨に濡れると、隠したい己の醜い姿を暴かれるようで嫌だった。独り、屋根の下にいると、雨によって私だけ外界から隔離されているようでたまらなくなった」
弥勒は視線を伏せている。
珊瑚も、あえて彼を見ない。
「雨は薄い紗となって全てを覆いつくす。私自身も雨とともに消えてなくなりそうで……」
単調な雨の音は静寂。気が遠くなるほどの静寂。
静寂は孤独。
「だから、雨は嫌いだ」
「法師さま」
独り言のように、つぶやくように、珊瑚は遠くを彷徨う彼の心に語りかける。
「あたしはいつの間にか、また雨の音が好きになったんだ」
雨の心。
それは、受け取る者の心。
「どうしてだか解る?」
雨は聴く者の心を奏でる。
哀しいときは寂しい音。嬉しいときは弾むような音。幸せなときはやわらかな音。
法師さま。
今のあたしの心はね、──
「隣に法師さまがいるからだよ」
弥勒の表情がわずかに動き、そして、顔を上げた彼の瞳が、簾を揺らせる天と地をつなぐ無数の銀の糸に向けられた。
「……雨は好きではない」
穏やかな声音には、先ほどとは異なる響きが含まれていた。
「だが、おまえがいるから。世界から隔離されようと、おまえがともにいてくれるから」
外界から遠ざけられて、そうしたら、彼女の存在が強く際立った。
この世に二人だけ。
そんな錯覚に酔わされる。
「私も……たぶん、雨が好きになるだろう」
彼がこちらを見て小さく微笑んだので、珊瑚もけぶるように微笑み返した。
とても、静か。
ねえ、法師さま。
いま、あなたの耳にはどんなふうに雨の音が聴こえてる?
あたしの代わりに雨の音が告げてるの、解る?
だいすき
世界でいちばん。
だいすき
〔了〕
2008.5.31.