アルルカンの憂鬱
「おや。珊瑚はおらんのか?」
かごめと犬夜叉は現代へ行って不在だが、楓の村にて、一行は思い思いに時間を過ごしていた。
一人、家の中にいた弥勒に、外から戻った楓が戸口から声をかけた。
「珊瑚なら、七宝と水を汲みにいったようですが。表にいませんでしたか?」
楓は人影を探すように振り向いたが、誰の姿も認められなかったようだ。
「では法師どの。これを珊瑚に渡してくださらんか」
楓が差し出したのは丁寧に折りたたまれた文。
「珊瑚に?」
「さっき、村の若いのから赤い眼の猫を連れた娘に渡してくれと頼まれたんじゃ。では、よろしくな」
「はあ」
何やら嫌な予感がする。
楓の姿が見えなくなってから、法師はすぐさま文を開いてみた。
「え……と。たどたどしい字だな」
さんごどの
あなたはきれいです
あなたをひと目みたときからわすれることができません
はなしがしたいです
日がしずむころ、やしろのおくのシイのところでまっています
「って、何だこいつ!」
稚拙な文字で書かれたその文を持つ弥勒の指が微かに震え、たちまち表情が険しくなる。
「生意気にも珊瑚に一目惚れだと? おれに断りもなくこんなもんよこしやがって」
むかむかと腹立たしい思いが込み上げ、考える暇もなく手にした文を引き裂いてしまったが、ふと我に返ると不安になった。
これを読んだら、珊瑚はこの差出主に会いにいくだろうか。
普段、文字とは無縁の人間が一生懸命書いたらしい手跡。
その拙さから見て、にわか仕込みで誰かに教わって、必死で覚えたのであろう文字。
それを考えると、珊瑚がこの恋文の主を無下にするとは思えなかった。
「何やってんの、法師さま?」
不意に声をかけられ、慌てて破った文を懐の中に隠す。
「ああ、珊瑚。どこへ行ってたんです?」
「水を汲みにって言ってなかったっけ? それより、今、何を隠したの?」
「え、いや。別に」
珊瑚は眼を細めて「ふーん」と言った。
「あたしには文に見えたけど?」
「何を言うんです。見間違いですよ」
「見間違えてない。どこの女からよ」
「おんな……?」
弥勒は怪訝な顔をしたが、すぐに珊瑚がそれを法師への恋文だと勘違いしているのだと気がついた。
「女からじゃありません。これはおまえへの」
「あたし宛て?」
「えっ? あ、だが、行く必要などないぞ、珊瑚」
「行くってどこへ。妖怪退治の依頼なの?」
しゃべればしゃべるほどぼろが出る。
こんな真摯な文を葬ってしまおうとしたと珊瑚に知れたら、軽蔑どころではすまないかもしれない。
「いや、あの。ふざけた依頼です。ネズミ駆除のために、雲母を十日ほど貸してほしいと」
「はあ?」
珊瑚は呆れた表情になる。
「無理に決まってるじゃないか、そんなの」
「ですよねえ」
「依頼主は? 悪いけど断ってくるよ」
「あああ! ちょっと待ってください!」
弥勒の懐の文を取ろうとする珊瑚の身体を慌てて彼は押しやった。
文の差出人と珊瑚が顔を合わせると弥勒の立場がまずいことになる。
「夕方、社の奥の椎の木の下で待っているそうです。あの辺りは日が暮れると危ない。私もついていきます」
「うん。ありがと」
何の疑問も抱かず珊瑚がうなずいたので、弥勒は胸をなでおろした。
夕刻。
社の奥の椎の下。
珊瑚と向かい合った若い男が、おどおどと言葉をつまらせていた。
勇気を振り絞って文を出した意中の相手が、まさか男連れでやってくるとは――
しかもその男は、娘の背後でじっとこちらを凝視しているのだ。
余計なことは言うな、と言わんばかりの眼光で。
「悪いね」
と、珊瑚は落ち着いた声で言った。
「できればあんたの希望を聞いてあげたいけど、それはできないことだから」
「……はい」
男は蚊の鳴くような声で答えた。
実直そうな、どこか気の弱そうな印象の若者だ。
彼にとって珊瑚に恋文を送るということは相当思い切った行動だったに違いない。
(だが)
と、弥勒は若者を睨みつけたまま、心の中で言いわけをする。
(珊瑚に手を出させるわけにはいかねえんだよ)
想いを伝えることを珊瑚に拒否されたと思い込んだ若者は、薄暗い小径を、とぼとぼと家に向かって帰っていった。
「なんか、ずいぶん気落ちさせちゃったみたいだね」
その後ろ姿を見送りながら、気の毒そうに珊瑚が言う。
「ねえ。追いかけてって、三日くらいなら雲母を貸してやってもいいって言ってみようか」
「はい?」
突然の珊瑚の言に法師は慌てた。
冗談ではない。
そんなことをされたら、あの文に書かれていたことが珊瑚に知れてしまう。
「駄目です」
と法師はきっぱりと言った。
「我々はいつでも出発できるよう、万全の態勢を整えておかねばなりません」
「ん……そうだね」
珊瑚は申しわけなさそうにまだ若者の消えた方角を見つめている。
「さて。我々も楓さまの家へ戻りましょう」
「うん」
弥勒が彼女の背に手を添えると、娘は驚いたような表情を見せたが、すぐにふわりと嬉しそうに表情を緩めた。
「よかった」
「ん?」
「女からの文じゃなくて」
弥勒は複雑な表情を浮かべる。
それはこっちの科白で、しかも今、現実にあったことだ。
そして、こんなことがこれからも起こりうるかもしれないという危惧に気づかされた。
自分に寄り添う娘をちらりと弥勒は見遣る。
彼女は美しく、それが誰であれ、想いをよせることは自由なのだ。
(とんだ道化だ)
己だけを見ている珊瑚に安心しきっていた。
恋敵の出現にやきもきするのは常に珊瑚のほうだとも思っていた。
しかし、実際は他の男が珊瑚に恋情を抱いていると知るだけで、これほどの不快感を覚える。
自分に女の影がさすたび、珊瑚にも同様の想いをさせてきたのだろうか。
(このおれが、恋に迷うとはな)
自分で思っている以上に、自分は珊瑚に惚れているらしい。
「詫びだ」
弥勒は、娘の肩を抱き寄せ、額に不意打ちの接吻を与えた。
〔了〕
2009.3.3.