深い森の中で

 深い森の中で、有象無象の妖怪たちに囲まれ、乱戦となった。
 仲間たちは皆、ばらばらになってしまったが、森は再び静けさを取り戻しつつあり、戦闘はようやく終わったようだ。
 独り、錫杖を手に辺りの気配を探りながら歩く弥勒は、右手に走る痛みに顔をしかめた。
(最猛勝をかなり吸っちまったからな)
 夕暮れの森の中に雨が降ってきた。
(まずいな)
 弥勒は眉をひそめる。
 ばらばらになった仲間たちを見つけるには、犬夜叉の鼻が一番の頼りだ。
 しかし、雨で皆の匂いが消されれば、この広い森の中、日が暮れる前に全員を捜し出すのは容易ではないだろう。
 法師は大きな木の洞を見つけ、その中で雨宿りをして身体を休めることにした。すでに疲労困憊である。
 刹那、背後でがさりと草を分ける音が聞こえた。
 はっとして振り向くと、
「法師さま──
 退治屋の娘が、飛来骨を手に驚いた顔をして法師を見ている。
「珊瑚。大丈夫か。怪我はないか?」
「ああ。だけど、みんなはぐれちゃったね。森の中はどんどん暗くなるし、雨も降ってきたし」
「雲母は一緒ではないのか?」
 珊瑚はちょっと肩をすくめ、大儀そうに飛来骨を持ち直した。
「かごめちゃんと七宝についているように言ったんだ。そのほうが、犬夜叉も動きやすいだろうから」
 そして、ふと、彼女は法師の様子に気がついた。
「法師さま、ひどい顔色……風穴、使ったんだね」
「大したことはありません。とにかく、やみくもに歩き廻るのはよくない。木の洞で雨を避けて、犬夜叉を待つことにしましょう」
「うん」
 だが、弥勒が示した樹洞を見た珊瑚の表情が、微妙なものになる。
「……もしかして、あそこで二人で雨宿りするの?」
「休めそうな場所はあそこくらいでしょう」
 大きな樹洞だが、それは人間の大人が一人、優に入れるという大きさだ。
 二人一緒に入るとなると、肩はもちろん、腕も肘も密着を免れないだろう。
「あ、あたしはいい。外にいる」
「おまえだって傷だらけじゃないですか。雨に濡れるのは毒ですよ」
「いいよ。慣れてるし」
 やれやれというように、弥勒はほうっと息をつく。
「では、私が外にいますから、珊瑚が洞の中で休みなさい。おなごに不自由を強いるほど、私は落ちぶれてはいませんよ」
「駄目だよ。最猛勝の毒を吸ったんだろう? 法師さまのほうが身体を労わらないと」
 雨はしとしとと降り続いている。
「では、一緒に雨に濡れて犬夜叉たちを待ちますか?」
 意図的なのかそうではないのか、弥勒の声には、微かに咎めるような響きが含まれた。
「日頃の我が身を省みると、珊瑚の警戒も尤もだが、今日はさすがにおまえに悪さをしようという気力もない」
「……」
「交替で見張りをしながら、少し休みましょう。犬夜叉が私たちを見つけてくれればよし。こちらから皆を捜すにしても、少し体力を回復させておくに限ります」
 不承不承ながら、珊瑚は小さくうなずいた。

 小雨ではあるが、しばらくやまないだろう。
 錫杖と飛来骨は、洞の外の木の幹に、目立つように立てかけておいた。
 珊瑚は、法師と一緒に雨を避けて木の洞の中に入ったが、やはり、身体の片側がどうしても彼に密着してしまう。
 緊張で身を固くする彼女は、できるだけ身を小さくして彼の隣に座っていた。
「あ、あたしが番をしてるから、法師さま、今のうちに少し眠りなよ」
「おなごを差し置いて、眠ったりできませんよ。おまえも相当疲れているのでしょう? 珊瑚こそ、少し眠りなさい」
 弥勒の声は淡々として、いつものような戯れ事に及ぶ気配はなさそうだ。
(法師さまのこと、今日は信じてもいいのかな……)
 そう思ったら、急に睡魔が襲ってきた。
 素直に眼を閉じる娘の様子を確認して、弥勒は視線を森に降る雨へ向けた。が、不意に、肩にことんと心地好い重みを乗せられ、びくりと身を強張らせた。
(……え?)
 弥勒は傍らの娘を見遣る。
 すうすうと穏やかに寝息を立てる珊瑚のあどけない寝顔。
 その頭が、弥勒の肩に無防備に寄りかかっていた。
「……」
 起きているときは、あれほどまでに警戒するくせに、ひとたび眠ってしまうと、ここまで無防備に身を寄せてくる。これは反則ではないか? 心臓に悪いことこの上ない。
(わざとやってんじゃねえだろうな)
「ん……」
 蕾のような唇から吐息がこぼれ、弥勒はぎくりとした。
 よほど疲れているのだろう。珊瑚が眼を覚ます気配はなく、日頃、彼が愛しさをひた隠しにしている娘の唇がすぐ目の前にあった。
 抗いがたい誘惑に駆られる。
(一度だけ)
 一度、そっと唇を触れ合わせるくらいなら──
 弥勒は自分自身への言い訳を探した。
 いつ、生命の限界が訪れるかも判らない日々。
 珊瑚が彼に想いを寄せていることは明白だ。彼も珊瑚を憎からず思っている。
 だから、これは決して無理無体なことではない。珊瑚に知られることもない。
(一度でいい、おまえの唇を知りたい)
 弥勒は、おもむろに己に寄りかかる珊瑚の頬に片方の手を添えた。
(おまえが愛しい……)
 彼の肩に頭を預け、寝息を繰り返す珊瑚の唇に、弥勒はそっと己の唇を合わせようとした。
 が、無垢な寝顔を見せる珊瑚に罪悪感が胸を刺し、一瞬、躊躇う。
「……さまー! ……ごちゃーん!」
 弥勒ははっと樹洞の外へ視線を走らせた。
 夕刻の雨の中、森の奥からやってくる朧な影がある。
「珊瑚、起きろ! かごめさまの声だ。迎えが来ましたよ」
 彼は珊瑚を揺り起こした。
 犬夜叉がかごめを背負い、変化した雲母が七宝を背に乗せて、仲間たちは木に立てかけておいた錫杖と飛来骨を見つけ、こちらへやってくる。
 口づけが未遂に終わったことに、むしろ弥勒はほっとしていた。
(これでよかったのだ)
 珊瑚とは、何もないほうがいい。
「ありがとう、法師さま」
 洞の外へ出た弥勒は、いきなり珊瑚から礼を言われ、怪訝そうな顔つきになる。
「お尻触ったりとか、本当にしなかったよね。屋根のあるところに落ち着けたら、今度はあたしが法師さまを介抱してあげるよ」
 法師は娘の愛らしさに苦笑した。
「そんなに簡単に気を許すものではありません。実は、かなり際どいところだったんですから」
「?」
 珊瑚は不思議そうに法師を見つめたが、彼はそれ以上のことを教えてはくれなかった。
 弥勒と珊瑚は、錫杖と飛来骨を持って雲母に乗り、仲間たちとともに薄暗い雨の森を後にした。
 深い森の樹洞の中に、秘密を隠して。

〔了〕

2015.4.3.