光、ここにあれ

「迷ったかな」
「ですな」
 追っていた妖怪は無事始末したが、雲母が怪我を負ってしまったため、進んだ距離だけ、徒歩で山中を引き返している。
 すでに辺りは薄暗い。
 足をとめた弥勒が背後の珊瑚を振り向くと、彼女にも疲労の色が漂っていた。
「夜はむやみに動かぬほうがよい。この辺りで夜が明けるのを待ちましょう」
「うん。雲母を早く休ませてやりたいし」
 夜露をしのげる場所を探すと適当な洞窟があったので、二人はそこへ入った。中はあまり広いとはいえず、身をかがめなければ頭がつかえてしまう。
「……真っ暗だね」
「当然だと思うが」
「変なことしないでよ」
 お約束の科白に法師はため息をつく。
「焚き木になるものを集めてこよう。おまえは雲母を看ててやりなさい」
「あ、待って、法師さま」
 よいしょ、と踵を返そうとした弥勒を珊瑚の声が制す。
「ちょうどいいもの持ってるよ。ちょっと待って」
 暗くてよく判らなかったが、しばらく何やらごそごそしていたかと思うと、膝をついた珊瑚の手許にぽっと明かりが灯った。
「蝋燭?」
 和蝋燭ではない。
 珊瑚はそれを洞窟の地面に置いて、中腰になったままの法師を手招きした。
 蝋燭の火は狭い無機質な空間に温かな色を生み出し、退治屋の装束をまとった凛々しい娘の姿を浮かび上がらせている。
 そして。
「香りが……する……?」
 珊瑚と向かい合わせに腰を下ろした弥勒が首を傾げると、娘は控えめに唇を綻ばせた。
「いい匂いがするだろう? あろま……なんとかって、えっと。つまり香りのする蝋燭なんだって」
「蝋燭から香りが?」
 うん、とうなずいて、珊瑚は膝の上の雲母を撫でた。
 薬草が効いているのだろう。雲母は落ち着いた様子で眠っている。
「みんなと旅を始めてからしばらく、あたし、ちゃんと眠れない日が続いてて。そうしたら、あるときかごめちゃんが、国からこれを持ってきてくれたんだ」
 言いながら、珊瑚は細長い角型の携帯食を弥勒に手渡した。
 これもかごめからの支給品らしい。
「香りがね、神経を落ち着かせてくれるからって」
「いつの話だ? こんな蝋燭は初めて見るが」
 珊瑚は微笑した。
「ほら、犬夜叉がいるから。これを灯してたのは、かごめちゃんと二人の部屋に泊まったときだけ。でも、法師さまとも一緒にこれを灯してみたかったんだ」
 やさしい光と甘い香りに照らされる。
 この感じを法師さまにも分けてあげたかったから。
 チョコレート色の携帯食を小さく齧った珊瑚が少し視線を上げて弥勒を見ると、彼はどこかぼんやりと橙色の蝋燭の炎を瞳に映していた。
「法師さま?」
 気遣わしげな珊瑚の声にはっと我に返る。
──いや。揺れんのだなと思って」
「揺れる?」
 珊瑚が小さく首を傾ける。
「御仏に供える燈明の炎は、定まることなく、絶えず揺れる。だが、この蝋燭の炎は静かだ」
「そういえばそうだね。蝋燭って炎がもっと揺らぐのに」
「この灯は、おまえの瞳のようだな」
「どういう意味?」
 弥勒の口許を微笑のような影が揺れた。
「おまえは炎を思わせる。初めて見たとき、燃えさかる炎のようなおなごだと」
「どっ、どうせあたしはっ!」
 わずかに狼狽え、珊瑚の耳が熱を持つ。
「それが短所だと言っているのではない。そういったおまえのまっすぐな激しさに、事実、惹かれたのだから」
 真っ赤になった珊瑚は下を向いてもぐもぐと口を動かしている。食べることに集中しようと決めたようだ。
「子供の頃──これでも真面目に修行してたんだが──御仏に蝋燭を供えると、決まって炎の揺らぎに不安を覚えた」
「……どうして?」
 下を向いたまま、小さな声で珊瑚が問う。
「あの炎の揺らぎは美しい。しかし私には……定まらない光は己の心の迷いの反映であるように思われて、自分の未熟さを思い知らされた気がしたものだ」
「美しいものは美しいと思っていればそれでいいんじゃない? だって、悟りをひらくにはふつう何十年もかかるんだろう?」
 だけど。
 法師さまには時間がなかったんだよね──
「炎が揺れるのは、法師さまの心のせいじゃないよ」
「ああ。昔のことだ。それに、揺れることのない光を見つけたからな」
 火影を受けて陰影を刻む弥勒の顔を、珊瑚はそっと見上げてみる。
「ねえ。この蝋燭、法師さまにあげるよ。あたしはもう、なくても平気だから」
 熱を帯びた珊瑚の視線を弥勒の瞳が受けとめる。
「私にくれるか? 揺れない光を?」
 こくりとうなずく自分を映す黒い瞳が悪戯っぽく躍るのを珊瑚は見た。
「私が見つけた揺れない光というのは、おまえ……なのだが」
──!」
 大きく眼を見開き、弥勒を見つめたまま珊瑚は固まってしまった。
「無明の闇が私だとすれば、それを照らす光明はおまえだ」
 狭い洞窟を照らす小さな蝋燭の光を受けて、弥勒の手が珊瑚の頬へと伸びた。
「揺れることのない光。ときには激しく燃えさかり、だが、静かに闇を照らす灯火。それを私にくれるか……?」
 彼が身を乗り出す。
 洞窟内に黒い影が大きく揺らめく。
「だっ、だだだ駄目っ!」
「何故?」
 彼の吐息が唇にかかる。
 あと少しの距離で、じかに触れる。
 珊瑚は慌てふためいて、彼の肩を手で押した。
「食事中っ!」
「……」
 真っ赤な顔で片手に持った齧りかけの携帯食を突き出す珊瑚の様子に、法師は思わず噴き出した。
「では、食後の楽しみに取っておくとしましょうか」
 素直に身を引き、弥勒はふわりと微笑んだ。
「この光は珊瑚に似ているな」
 やさしくて温かい色をした光を見つめていると何かやわらかなものに包まれているようで。
「それに、よい香りがするところも」
「!」
 大切な君と二人の夜は、長いようで短いだろう。
 静かな光と香りに包まれて、さて──、何を語ろう。

〔了〕

2008.6.18.