星が生まれる
雨あがりの涼しい風が頬にかかる額髪をなぶるように梳いていく。
愛しいひとの帰りを待ちながら、珊瑚は井戸端で野菜を洗っていた。
風に乗って、不意に耳に入った錫杖の音。
それがこちらへ近づくにつれ、胸が高鳴る。
最愛の人と暮らす一日一日がこんなにも愛おしい。
「ただいま帰りました」
待ちわびていた声を聞くや立ち上がり、華やぐ笑顔で振り返って彼を迎えた。
「お帰りなさい、法師さま」
「その“法師さま”はいつになったら改めてくれるんです?」
新妻に微笑みかける弥勒は、たくさんの瓜を入れた籠を持っていた。
「それ、お布施? 二人じゃ食べきれないね」
「冷やして、明日にでも楓さまのところへお裾分けに行きましょう」
籠を下ろし、珊瑚のそばへ寄った弥勒はやや気遣わしげな表情を作る。
「それより身体は大丈夫か? 夕餉の支度は私がやるから、おまえは少し休んでいなさい」
「平気だって。悪阻もひどくないし、夕餉も素麺はもう茹でて洗ってあるから、あとは蒸すだけ。七夕だから梶の葉も取ってきた」
今宵は星合い。
先ほど小雨があがったばかりの夕空を見上げ、弥勒は独り言のように言の葉を紡ぐ。
「洒涙雨にならなくてよかったな」
「うん──」
珊瑚はそっと己の腹を撫でた。
そこには三月になろうという小さな生命が宿っている。
「ねえ、法師さま」
「うん?」
「男の子と女の子、法師さまはどっちがいい?」
少し伏せた睫毛の下から小さく問うと、ふわ、と羽のように法師の腕に包みこまれた。
「どちらでも。おまえと私の子なのだから」
やさしい瞳で見つめられ、珊瑚の頬が仄かに赤らむ。
「うん、そうだね。あたしたちの──法師さまの子がここにいるんだよね」
恥ずかしそうに微笑む珊瑚の前に膝をついて、弥勒は彼女の腰を抱き寄せる。
そうして、新しい生命が息吹くその場所に、そっと頬を押し当てた。
「まずは健やかに産まれてくれることを星に願おうか」
珊瑚の懐妊が判明したのはほんの数日前。
そこに存在する我が子に語りかけるように、弥勒はささやいた。
「棚機に願ったら、きっと女の子だね。あ、でも……」
急に口ごもった珊瑚を不審に思い、彼女の腰を抱いたまま、その顔を見上げると。
「あたし、この子に法師さまを取られちゃう気がする」
小さく拗ねたような口調と表情があまりにも真剣だったので、弥勒はくすくす笑い出した。
「子は子、おまえはおまえだ。まだまだ産んでもらわねばならんのに、おまえを放っておくはずがないでしょう」
立ち上がった法師は、さっと頬を染めた妻を引き寄せ、額に軽く唇をあてた。
「さて。夕餉の用意をしましょうか。盆に入れば忙しくなる。書き入れ時だからしっかり稼がせてもらいますよ」
「なんか法師っていうより遣り手の商人みたいだよ、その科白」
苦笑を浮かべ、けれど幸せそうに、珊瑚が洗い終わった野菜を入れた笊を持ち上げようとすると、弥勒はさりげなく彼女からそれを取り上げた。
ありがとう、と珊瑚がつぶやく。
「法師さま、盆になる前に、少し時間取れないかな。まだ報告してない。この子のこと」
「ああ、おまえの里に? いいですよ。近々報告を兼ねて墓参りに行きましょう」
「それと、夢心さまのところ」
控えめに珊瑚が付け加えると、弥勒は珍しく照れたような表情を見せた。
「……ああ。そうだったな」
育ての親と、愛すべき化け狸を思い出したのだろう。
ふとこぼれた夫のやわらかな笑みを見て、珊瑚は嬉しそうに踵を返した。
「盥を持ってくるね。足、拭って。それに瓜を冷やさなきゃ」
「ああ。頼む」
井戸のつるべに手をかけ、駆けていく珊瑚の後ろ姿に何気なく目をやった。
人妻になってもなお初々しい、束ねた黒髪が跳ねる様が愛おしかった。
天を仰いだ。
すでに空は藍色を帯び、星が瞬き始めている。
夢ではない。
焦がれていた幸せがここにある。
愛しい妻と、
平和な日常と、
夢にまで見た我が子。
己が望んだ、未来のかたち。
星の宿り。星合いの空。
いま、星が流れた。
〔了〕
2008.6.30.