君に一番近い場所

 特に自意識過剰だとは思わない。
 まして、己が独占欲が強いなどとは、思ってもみなかった。
 過去に色恋がらみで自分と係わってきた女たちだって、それ以上でもそれ以下でもない。
 むしろ必要以上に自分への関心を露にされると鬱陶しくさえあったものだ。
 それなのに……
「なに?」
 ぼんやり、そんなことを思って隣に座る娘を見つめていると、
「あたしの顔に何かついてる?」
 怪訝そうに眉をひそめられた。
 そんな顔もなんて可愛いんでしょうねぇ、などと惚気たことを考えながら、弥勒はさりげない微笑を浮かべてみせる。
「何でもありません。いつ見ても美しいなあと思いまして」
「法師さまって、絶対、口から先に生まれてるよね」
 仄かに頬を赤らめ、珊瑚は彼から視線を逸らせてうつむいた。
 川のほとり、珊瑚と二人きりで休息をとりながら、弥勒はとりとめもなく思考を巡らせる。
 珊瑚以外にだって大切な存在はいる。
 夢心和尚を筆頭に、犬夜叉やかごめ。七宝や雲母、そして、ハチ。
 けれど、彼らは自分にとって大切な人たちではあるものの、一歩引いて見守りたい感がある。そういう位置が自分には合っている。
 だが、珊瑚に対してはそんな場所に甘んじていたくない。
 彼女にとっての一番でありたい。
 いつでも彼女がまっさきに思い浮かべる存在であり続けたい。
「珊瑚」
「ん? なあに、法師さま」
 川面に石を投げて波紋を作っていた珊瑚は、面映ゆそうに少しまぶしそうに、弥勒を振り返った。
「もしもの話だが」
「うん」
「私と琥珀が同時に崖から落ちかけていたら……おまえはどちらを先に助ける?」
 さりげなさを装いつつ、弥勒は注意深く珊瑚の表情を窺いながら言った。
 珊瑚はきょとんとしている。
「変な法師さま。そんなこと訊いてどうするの?」
「いいから」
「だって、二人とも自力で登れるじゃないか」
 弥勒はわずかに眉のあたりに釈然としない色を浮かべた。
「二人とも瀕死の状態なんです。で、どちらを先に助ける?」
「琥珀かな」
 やっぱり……と、法師は落胆を隠せず、珊瑚から顔を逸らして小さくため息を洩らした。
 そうだろうと予想はしていたが、やはり小さな嫉妬は拭えない。
 珊瑚にとっての“一番”という位置。
「だって琥珀のほうが体重が軽いし。法師さまは雲母に頼む。そうしたら同時に助けられるだろう?」
 にこっと控えめに笑顔を見せる珊瑚が愛おしく、抱きしめたい衝動に駆られた。
 しかし、法師は納得しない。
「おまえが先に琥珀を助けているうちに、私は落ちるんです。ではどうする?」
「すぐに雲母に乗って法師さまを追うよ」
 まかせて、と自信満々な珊瑚の様子に、はは、と法師は小さく苦笑した。

 ……そういうことではないのだが……

「では、反対の立場で、おまえとかごめさまが崖から落ちかけていて」
「うん」
「おまえのほうが体力もあるし敏捷だ。なら、私はかごめさまを先に助けていいですね?」
「それは……」
 言いよどんだ珊瑚の表情に、場合によっては嫉妬すると大きく書かれていて、ようやく弥勒は満足感を得た。
「まあ、かごめさまは犬夜叉がまっさきに助けにくるでしょうから」
 と、弥勒は再び珊瑚の瞳を探るような眼をする。
「私と琥珀では、どうあっても琥珀が先ですか?」
 珊瑚は少し黙していたが、ややあって、真面目な表情で弥勒をちらと見て、川の水面みなもへ視線を移した。
「ねえ、法師さま。琥珀は、今はまだ手を貸してやらなきゃって気持ちがあたしの中にあるの。でも、あの子もすぐに一人立ちする。だから」
 ぱしゃっ、と珊瑚の指が投げた石が水面を跳ね、いくつもの波紋を作った。
「法師さまを先に助けないのは、それだけ法師さまのことを信頼しているからっていうのでは駄目?」
「珊瑚」
「でも……あの、法師さま、絶対にこっちを見ないでね」
 少し慌てたように、珊瑚は掌で弥勒の顔を軽く押しやった。
「いざとなったら、あたし、きっと法師さましか目に入らないと思う」
 蚊の鳴くような声だったが、その言葉は弥勒の脳裏にはっきりと刻み込まれた。
「琥珀は、幸せになってほしい一番のひと。法師さまは、一緒に幸せになりたい一番のひと。……あの、つまりだから」
 困ったように言葉が途切れた。
 珊瑚の顔が見たい。
 珊瑚を抱きしめたい。
 珊瑚が愛しい。こんなにも――
「琥珀はあたしと離れていても、幸せであることが判っていればそれでいいけど、法師さまはいつも一緒でなくちゃ嫌なんだ」

 こんなにも
  胸が、震える……

「あの」
 わずかな沈黙が降り、珊瑚は不安そうな眼差しを傍らの法師に向けようとした。
「法師さま……?」
「見るな」
「え?」
「こっちを見るな」
 言葉と同時に抱きしめられた。
 紅潮した頬を見られまいと、法師は珊瑚の髪に顔を埋める。
 強い力で抱きしめられ、珊瑚は赫くなりながらも彼の背を抱きしめ返した。
「法師さま、あたし、自惚れてもいい? あたし――
 法師さまの一番だって、思っても……いい?
「私も自惚れていいか?」
 喉につまったような声を聞き、弥勒の腕の中で珊瑚はこくりとうなずいた。

 すでに、その位置を占めていた。
 愛しいひとの、一番という場所。

〔了〕

2008.9.26.

奈落を倒したあと、でも二人はまだ祝言前…という感じ。