愛しさと嘘の狭間
仲間たちの輪から離れ、弥勒は、川辺で痛む右手を水に浸した。
毒を吸い、瘴気の傷がまた広がったようだ。
痛みに耐えるのは珊瑚のためだと思えば苦にならなかったが、奈落を倒す前に寿命が尽きてしまうかもしれないことが、弥勒をひどく怯えさせた。
(奈落を生かしたまま、珊瑚を残して逝くことだけは……)
熱を持った右手を川の水で冷やし、痛みが少し和らぐと、弥勒はその場に仰向けに寝転んだ。
穏やかな青い空が見える。
弥勒は眼を閉じた。
しばらくして、微かな気配を感じて眼を開けると、すぐ目の前に、寝転ぶ弥勒の顔を上から覗き込むようにして見ている珊瑚の顔があった。
先程、戦闘があったのだが、すでに彼女は小袖に着替えていた。
「……珊瑚」
弥勒はにっこりと笑顔を作った。
彼女を安心させるためというより、愛しい娘の顔が目に入ったことが単純に嬉しかったのだ。
珊瑚は何も言わず、少しまぶしげに、けれど、顔を引っ込めることもなく、法師を見つめていた。
「いつまでもそのままだと襲いますよ」
「位置が逆だろ?」
法師の両手が下からがしっと珊瑚の顔を掴み、自分の顔のほうへ引き寄せようとした。
「ちょっ、法師さま!」
珊瑚が戸惑ったような声を上げると、弥勒は小さく微笑んで手を離した。
「冗談ですよ」
起き上がって、並んで座る。
珊瑚はちらちらと法師の様子を窺った。
「何してたの、法師さま」
「何、とは?」
「こんなところで、一人で。いつの間にか姿が見えなくなっていたから、みんな心配してるよ」
「みんな……? おまえは?」
「あたしも。当たり前じゃないか。だから、捜しに来たんだよ」
不安そうな珊瑚の瞳を弥勒はじっと真顔で見つめ、突然、ふっと破顔してみせた。
「最近、珊瑚が構ってくれないから、拗ねていたんです」
「嘘ばっかり」
「こんなふうに」
法師はふわりと珊瑚の身体を片方の腕で抱き込んで言った。
「最近、触れ合ってませんよね」
さらに、手を彼女の腰の線に沿って這わせかけたが、その動きはすぐに止まった。
「はたかないんですか?」
「構うってそういう意味?」
「そうではないが」
悪戯っぽく笑う弥勒の顔に珊瑚はじっと視線を注いでいる。
「法師さま、何かあたしにしてほしいこととか、ある?」
「うん?」
「最近の法師さま、なんか元気がないように見えるから。……肩を抱いてほしいとかさ」
「それはおまえがしてほしいことでしょう?」
図星だったのか、珊瑚の顔がほんのり桜色に染まった。
「私は抱かれるより、抱くほうがいいな」
「ちゃんと肩って言ってよ」
「別に間違ってませんよ。何を赫くなってるんです」
うつむく娘の顔を覗き込んだ弥勒は、そのまま顔を近づけかけ、ふと、思い直したように右手を握り、空を見た。
「では、そうだな。いつも、私のそばにいてください。朝も昼も夜も」
「いつも一緒にいるじゃないか」
「どんなときでも、少しでも長くおまえを見ていたい」
その姿を、瞼に焼きつけたい。
「そばにいるよ、法師さま。この先もずっと。一緒に闘って、本懐を遂げたら、そしたら……」
見上げてくるひたむきな視線から、弥勒は思わず眼を逸らした。
「法師さま?」
「あ、いや」
眼を逸らしてはならない。
珊瑚に、嘘の気配を悟らせてはならない。
だから甘い雰囲気で囲ってしまう。純情な珊瑚は必ず騙されてくれるから。
「解っています。一緒に闘って、本懐を遂げて、そして夫婦になろう」
甘くささやけば誤魔化せる。
見つめられれば、柔和に微笑む。
これからもずっと一緒だと。
流暢な嘘はむしろ彼の得意とするところだが、珊瑚に嘘をつき続けることはやはりつらい。
けれど、風穴の限界が近づいていることを知らせて、絶望に彩られる珊瑚の顔を見るのはもっと心が痛かった。
だから笑う。
きっと、最後の瞬間まで。
〔了〕
2012.10.1.