奇跡の降る夜
「今日はね、あたしの世界では特別な日なのよ」
現代の暦で十二月二十四日にあたるその日、かごめはとっておきの話をするように、にっこりと珊瑚に言った。
「外国の信仰で救世主といわれた人が生まれた日の前夜でね、その日の夜は、家族とか大切な人と一緒に過ごすの」
と言っても、うちは神社で宗教が違うんだけど、と少女は悪戯っぽく笑う。
ふうん、と珊瑚は相槌を打ち、
「救世主――この世の人々を救う存在か」
ふと拳を口許に当てて、複雑な表情でちらとかごめを見た。
「仏教じゃ、弥勒菩薩様がそんな感じかも……」
「……」
菩薩の名を持つ例の法師の顔を思い浮かべた二人の少女は、しばしの沈黙のあと、曖昧に乾いた笑いを浮かべ、この話をやめた。
特に差し迫った戦況の変化もなく、この日は家族と過ごさせてほしいとのかごめのたっての望みで、彼女は夕方、犬夜叉とともに井戸の向こうに帰っていった。
残りの面々に楓を加えた顔ぶれで夕餉を終えたのち、七宝と雲母が眠りについたのを確認してから、珊瑚は外に出た。
ゆったりと歩を進めながら、寒空の中に輝く満天の星を数える。
「さむ……」
寒さに張りつめた空気に冴え冴えとした輝きを放つ星宿が美しい。
村外れまで歩いていき、ぼんやりと空に輝く星の群れを眺めていると、不意に背後に気配を感じたのと同時にふわりと温かなものが肩にかけられた。
「こんな夜に出歩くと、身体を冷やしますよ」
「法師さま」
彼が掛けてくれたのはアッシュピンクの大判のストール。
昼間、かごめが「クリスマスプレゼント」と言って、仲間たちみんなに贈ったものだ。
法師の衿元にも濃いグレーのストールが巻かれている。
「この生地、温かいね」
彼のものと同じ手触りのウールのそれを、珊瑚はやさしい気持ちでゆっくり撫でた。
「私に声もかけず、散歩に出るとはひどいですな。しかも、こんな時刻に一人で」
「ごめん。でも、今宵は特別な夜だっていうから、星が見たくて」
星空を仰いでから法師に微笑みかける珊瑚の頬を、弥勒の両手がやさしく包んだ。
「こんなに冷えているではありませんか。確かに星は美しいが、長時間外にいては身体を冷やしますよ」
「うん、ありがと。でも、ちょっとだけ星に祈らせて」
乙女らしく星降る夜空を眺めていたいという気持ちは解らなくもなかったが、
「……祈る?」
その意味が掴めず、弥勒は首を傾げてみせた。
珊瑚はかごめから聞いた話を法師にも伝える。
今宵は救世主生誕の聖なる夜なのだと。
「あ、でも異国の神様なんだよね」
いささか照れくさそうに、珊瑚はそう付け加えた。
「だけどさ、こんなに星が綺麗だと神聖な気持ちになるだろう?」
「ああ」
「だからちょっとだけ、家族のために祈りたくなって。あたしは――今日、家族と一緒に過ごせないから」
珊瑚の微笑が小さくなり、顔がうつむく。
たった一人の家族、琥珀のことを想って――
「あの子も今、どこかでこの同じ空を見ているかもしれない。同じ星を見ているかもしれない。……だから」
あの子に希望を与えてください。
「今は祈ることしかできないから……」
「私も祈ろう。効果が倍になるかもしれませんよ」
星に手を合わせる珊瑚の横に並び、仰ぎ見ていた星辰から、法師は視線を彼女に移して微笑した。
「……ありがとう」
小声で礼を言い、胸のうちで、弥勒という存在にそっと感謝する。
ふっと、仏教じゃ救世主は弥勒菩薩様かもと言っていた昼間の会話が思い出され、くすりと小さな笑いを洩らしてしまった。
「何を笑ってるんです?」
「ううん、こっちの話。法師さま、これ以上冷える前に、家に戻ろうか」
「おまえの気がすんだなら」
満天の星が輝く空の下、二人は踵を返し、楓の家への道をゆっくり辿る。
「珊瑚。異国の宗教では、今宵は家族と過ごすのだと言っていたな」
「うん。だから、かごめちゃんは実家に帰ったんだよ」
「未来……の、家族では駄目か?」
はたり、と珊瑚の足がとまった。
「血を分けた肉親ではない。琥珀の代わりにはなれん。しかし、私はおまえの伴侶になりたいと心から願っている」
珊瑚の心臓がとくんと鳴った。
――法師さま、祈ったのは、琥珀のことだけじゃないの。
あたしを闇から救ってくれた、あなたが生まれたことへの感謝の祈りを捧げた。
「家族と過ごす日に琥珀と離れ離れなのはつらいだろうが、代わりに私が、おまえのそばにいてもいいか?」
立ちつくす珊瑚にあわせて足をとめた弥勒の瞳が、静かな熱情を湛えて彼女を見ている。
「一晩中、おまえに触れていたい」
星明かりの下で、互いの瞳を探るように見つめあっていたが、ふと慌てたように弥勒が言葉を付け足した。
「あ、別に変な意味じゃありませんよ」
いつになく真摯な弥勒の態度がくすぐったくて、嬉しくて。
「家族じゃなくても、大切な人と過ごす夜なんだって」
そっと手を差し出す。
「だから、一緒にいて」
素直なその言葉に、弥勒はやわらかな眼差しを返した。
儚げな微笑を漂わせた娘の手を取り、引き寄せ、冷えた身体を抱き寄せる。
「奇跡みたいだね」
「奇跡? 何がです?」
「ここにこうしていることが。法師さまが、奇跡なんだよ」
異国の宗教はよく解らない。
けれど、あたしにとっては、法師さまが生まれてきてくれた事実に感謝する夜。
同じ時代に生まれ、同じ土地に生き、偶然に偶然を重ねて巡り会う。
偶然は必然を生む。
あたしがあなたを恋したのも、あなたがあたしを愛してくれたのも、偶然という名の必然。
あなたに出逢った。
そのことが、奇跡なの。
〔了〕
2008.12.12.