白昼夢

 太陽は天頂を少し過ぎたあたりにある。
 川の畔に足をとめた犬夜叉たちの一行は、そこで昼食を、ということになった。
 三組に分かれた五人と一匹は、それぞれ振り分けられた昼餉のための作業に取り掛かる。
 かごめは場の用意。雲母は川で魚を獲る。
 犬夜叉と珊瑚は食べられそうな植物、及び、木の実を探して森に入り、法師と七宝は火を熾す枯れ枝を集めるため、やはり森へ入っていた。
「雲母はうまく魚を獲れたかのう。おら、もう腹ぺこじゃ」
「そうだな。焚き木もこれくらいでいいだろう。七宝、どうした? 戻りますよ」
「……あれは犬夜叉と珊瑚ではないか?」
「ん?」
 不意に立ち止まって訝しげな声を出す仔狐を不審に思い、木立の間から七宝が視線を向けている先をひょいと覗き込んだ弥勒の顔がぴきっと引きつった。
「なっ──!」
 どう見ても犬夜叉と珊瑚だ。
 自分が珊瑚を見間違えるはずはないし、目立つ緋色の衣に長い銀髪、犬耳をつけた少年なんて、そうそういるとも思えないから犬夜叉のほうも本人だ。
 では、なにをしている?
 あんなところで、じっと見つめあって立ちつくして。
「み、弥勒……」
 七宝が法衣の裾を引っ張るが、弥勒は凍りついたように、まばたきもせず二人に見入っていた。
 珊瑚が犬夜叉を見つめている。
 その瞳が潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
 犬夜叉も珊瑚を見つめている。
「……!」
 少年の手が珊瑚の顎にかかった。
 その手首を珊瑚の手が押しとどめるように握ったが、そんな彼女の動作を制するように犬夜叉のもう片方の手が彼女の肩を掴んだ。
 絡みつく視線から眼を逸らそうとうつむきかけた珊瑚の顔を、犬夜叉の手が持ち上げる。
 そのまま彼女の眼を覗き込むように犬夜叉が顔を近づけたとき、珊瑚の瞳から涙がこぼれた。
「……」
 七宝がこわごわ傍らの法師を見上げると、色を失った彼は凄まじい形相でふるふると震えていた。
 犬夜叉の顔がゆっくりと珊瑚の顔に近づき、そして──
「てめえっ、コラ、犬夜叉! 珊瑚に何しやがる!」
「おう、弥勒」
 集めた枝木をその場に投げ捨て、弥勒が木立の間から飛び出すと、珊瑚の顎に手をかけたまま、至って普通に犬夜叉は法師を顧みた。
「焚き木集まったか? こっちはあまり収穫なくてよ」
「焚き木? そんなもんどうでもいい! それより、珊瑚に何をした! てめえ、覚悟はできてるんだろうな」
「はあ? 覚悟? なに言ってんだ、おまえ?」
 弥勒の勢いに圧倒された犬夜叉は珊瑚から手を離して二、三歩後退さったが、珊瑚はうつむいて目許を指で覆っている。
「泣いてんじゃねえか! てめえが珊瑚に無理やり口づけようと──
 法師に胸倉を掴まれた犬夜叉はきょとんとしていたが、突然はっとなったかと思うと、声を張り上げて否定した。
「してねえっ! ちょっと待て、誤解だ、弥勒! やめろ、数珠に手をかけるなあっ」
「問答無用」
 じゃら。
「かごめさまには申しわけないが、珊瑚に手を出そうとした以上、生命はないと思え」
「だからまず話を聞けっつってんだろーがっ! おい、珊瑚! ぼけっとしてねえで、こいつ何とかしろ!」
「この期に及んで命乞いなんざ……」
「あっ、流れたよ、犬夜叉」
 いきなり場違いな明るい声が上がり、かくんとなった法師は瞠目して珊瑚を見た。
「……珊瑚?」
「そうか。よかったな、もう痛まねえか?」
「……?」
「うん、ありがとね。あ、法師さま、いたんだ。お腹空いたねえ。木の実も木の芽もあんまりなかったからさ、雲母が大漁だと嬉しいんだけど」
 先に行くね、と男たちに言い残し、足許に置いていた集めた木の実を入れた籠を手に取って、珊瑚はすたすたとかごめの待つ川のほうへと歩いていってしまった。
「……あの。珊瑚はどうしたんです?」
 狐につままれたような顔をする法師の手を払いのけ、犬夜叉は不機嫌に彼を睨んだ。
「どうもしねえよ。眼にゴミが入ったっていうからよ、見せてみろって言っただけだ」
「……眼に。ゴミ……」
「だから、痛くて眼が開けられねえって言うから取ってやろうとしたんだよ!」
「はあ。眼にゴミ……」
「涙で流れたんだろうよ。ったく」
 法師は心底ほっとしたように大きなため息を吐いた。
「なんだ」
「……おい」
「そうですよねえ。珊瑚がまさか、私以外の男に唇を許すはずがありませんよねえ。それも犬夜叉に」
「おい。何かおれに言うことはねえのか?」
「はい?」
 そのまま珊瑚が向かったほうへ行こうとする弥勒の肩を、犬夜叉ががしっと掴む。
「てめえの語彙には謝罪という言葉がねーのかよっ!」
「器が小さいですなあ、犬夜叉。ちょっとした勘違いじゃないですか」
「ちょっとした勘違いで殺されかけたんじゃ割りにあわねえ!」
「勘違いされる前に私を呼べばよかったんです」
「眼にゴミが入ったくらいでか?」
「そうですよ。そうしていれば、いらぬ誤解を招くこともなかったのに」
 謝る気などさらさらなさそうな法師の態度に、半妖の少年はげんなりと肩を落とす。
「……おまえ、長生きしそうだな」
「そうですか? おまえが珊瑚に口づけを強要しているのを見たときは、心臓が止まるかと思いましたが」
「だから、してねえっつってんだろーが!」
 真っ赤になって怒鳴る犬夜叉をさらりと無視して錫杖だけを持ち、弥勒は焚き木のことなど失念したように川へ向かって歩き始めた。
「ですよねー。私の珊瑚が犬夜叉なんかと……」
 その後ろを怒り心頭の犬夜叉が乱暴な足取りで追う。
「謝れっつってんだよ! この、ボケ!」
 あとには一部始終を見ていた小さな妖狐だけが、ばらまかれた枝木とともに残された。
 去っていく彼らを茫然と見送っていた仔狐は、二人の姿が見えなくなると、やがて小声でぽつりとつぶやいた。
「……アホじゃ」

〔了〕

2008.4.30.