恋心
女遊びをしての帰り道。
重い足取りで歩く弥勒は、前髪をかきあげ、自嘲するように口許をゆがめた。
これから仲間たちのもとに帰るわけだが、彼らの冷たい視線に迎えられるのかと思うと、いささか気が重い。
否、彼らのというより、あの娘の、というべきか――
ふと歩をとめ、法師は吐息を洩らす。
遊び女のもとへ行き、得たのは虚しさと罪悪感のみ。
片時も脳裏を離れぬひとつの面影。
この感傷は何だろう。
心の伴わない行為に、これまで違和感を感じることなどなかったというのに。
弥勒は宿に戻る前に心を落ち着けようと、村外れの森へ足を向けた。
が、森の中でそこにいる人影を見て、ぎくりとなる。
(珊瑚――)
彼女の目を避けたはずが、逆に進んで顔を合わせる破目になってしまった。
気まずい。
だが、
(眠って、る……?)
法師の気配に瞳を上げたのは、巨大化した猫又だけだった。
珊瑚は、そんな雲母にもたれかかるように身を預け、眼を閉じている。
ゆらりと尾を振る雲母の頭を撫でてやり、弥勒はそのそばに膝をついた。
さわさわと夕方の風が吹いている。
そ、と娘の前髪に触れようと手を伸ばし、弥勒はその手をとめた。
珊瑚の頬には涙のあとがあった。
(泣いていたのか。……独りで)
容易く人前で涙を見せる娘ではない。
仲間のもとから離れ、雲母と二人きりでひと気のない場所まで足を延ばし、そっと泣いていたのだろう。
そして、泣き疲れて眠ってしまったのだ。
口許から洩れる小さな呼吸に耳を傾け、弥勒は珊瑚の顔をじっと見つめた。
――苦しい。
息がつまるようなこの胸苦しさの正体が何なのか、解りすぎるほど理解している。
珊瑚への恋慕だ。
そして、この娘もまた、己に想いを寄せてくれていることを知っている。
けれど、だからといって、己に何ができるだろう。
この、呪われた身で……
無造作に投げ出された珊瑚の片方の手に、その指先に触れようとして、ふっと躊躇った。
(さっきまで見知らぬ女に触れていた手で、珊瑚に触れようというのか)
唇を噛み、一瞬、眼を伏せたが、恐る恐る手を伸ばし、ほんの申しわけ程度に弥勒は己の指先を珊瑚の指先に重ねた。
罠を仕掛けるのは簡単だ。
その気になれば、この可憐な娘を我がものにすることなど造作もない。
けれど、一度あふれ出した想いを制御することは不可能だろう。
珊瑚の想いを知っているからこそ、彼女とまっすぐに向き合うことに臆病になる。
――風穴がなければ、とっくに想いを打ち明け、おまえを私のものにしているのに――
だが、風穴がなければ、おそらく自分たちは出逢っていなかった。
弥勒は、眠る珊瑚の長い睫毛に残った雫を見つめ、ゆっくりと呼吸をくり返す小さな唇を見つめた。
(本気で人を好きになるまいと思っていたのに)
ひたむきな視線を意識しつつ、何も気づかないふりをしていることにどれほど身を苛まれているか、焦がれる想いにどんなに身を焼いているか、彼女には想像もつかないだろう。
戯れに尻を撫でることはできても、この唇に唇を重ねる勇気すらない。
せめて、涙を拭ってやることが許されるなら――
じっと見つめていると不意に珊瑚の瞼が動いたので、弥勒は手を離して立ち上がり、雲母を見た。
「私は先に行きます。雲母、珊瑚をよろしく」
雲母が尻尾を揺らしたのを返答と取り、気配を消したまま、弥勒は今宵の宿へ、仲間たちのもとへとそっとその場を去った。
「ん……」
珊瑚がそろそろと眼を開ける。
「雲母」
もたれている猫又の首筋を撫で、珊瑚はけだるげに微笑んだ。
「いつの間にか、寝ちゃった」
身を起こし、目許を拭った彼女はふと、辺りに漂う香りに気づく。
「この香り……これは」
幽かだが――本当にそれは幽かなものだったが、抹香の匂いが感じられた。
「法師さま!?」
珊瑚は愕然となって跳ね起きた。
辺りには法師はおろか人の気配など感じられない。
では、この香りが意味するものは何だろう。
残り香が漂うほど、長く、彼はこの場にとどまっていたのだろうか。
珊瑚のそばに。
(女のところへ行ったくせに……)
新たな涙がぽろぽろとこぼれた。
「あたしのことなんか……好きでもなんでもないくせに」
やさしくしないで。
期待させないで。
それでも断ち切れない想いに、ただ身を焦がすことしかできなくて。
「う……う……っく」
声を殺して涙をこぼす娘をなぐさめるように、雲母が彼女に頭をすりよせた。
「……ごめっ、ごめんね、雲母」
珊瑚は雲母の背に顔を埋め、嗚咽をこらえた。
こんなふうに彼が思わせぶりに立ち去ったりしなければ。
普通に声をかけて起こしてくれれば、これほど気持ちをかき乱されはしなかったはずだ。
(法師さま――!)
どうして出逢ってしまったんだろう。
どうしてこんなに好きになってしまったんだろう。
振り向いてはくれない人なのに。
弥勒に直接言えるはずもない言葉を、珊瑚は心の中で叫び続けた。
好き――、法師さまがこんなに好き、と。
募る恋しさをどうにもできず、しかし、闘いの日々に臨むには、行き場のない恋心を抑えつけるしか術を持たず。
彼女は彼の真実の想いを知らず、彼は彼女のぎりぎりの想いを知らない。
静寂に浸された森の中、慕わしい抹香の香りが消えないことを、ただ、珊瑚は願った。
〔了〕
2009.12.8.