こしかた
おまたせ、と声をかけようとして、珊瑚はふと立ち止まった。
その視線の先には、彼女を待つ弥勒が、自らの右掌をじっと見つめて立ちつくしている。
彼はすぐに珊瑚の気配に気づき、顔を上げた。
「用意ができましたか」
退治屋の装束に身を固め、飛来骨を手にした珊瑚はうなずいて、彼のそばに近寄った。
「右手が気になるの……?」
控えめに問うてみた。
夫婦となって数日が経つ。
これから近辺に出没するという妖怪を退治しに向かうところだ。
「気になるの? 風穴、消えたのに?」
弥勒と珊瑚は肩を並べて歩き出した。
「ああ、なんだか当たり前の掌が、当たり前ではないような気がして」
「そうか。法師さまは、風穴のある年月のほうがずっと長いんだものね」
やっと呪いのない身になれたけれど、長年の習慣から違和感を覚えるのだろう。
歩きながら、何も穿たれていない掌をしげしげと見つめる夫の横顔をちらりちらりと眺めていた珊瑚は、現在の穏やかな生活を思い、今までの闘いを思った。
「でも」
と、珊瑚はゆっくり言葉を紡ぐ。
「法師さまに風穴がなかったら、あたしたちは出逢ってないんだよね」
瞳を上げた弥勒の視線と、珊瑚の視線がぶつかった。
「他にも“もしも”って思うことがあるよ」
先を促すように弥勒がうなずいたので、珊瑚は言葉を続けた。
「もし、法師さまがあたしを好きにならなかったら。そうしたら、法師さまはあたしのことをどう扱っただろう、とかね」
「扱う?」
「ただの仲間で終わっていたら、法師さまの女でもないのに焼きもち妬いたりして、面倒臭い女とか思われてたんじゃないかな」
「何を言ってるんです」
弥勒は屈託なく笑った。
「では、そうだな。もし、珊瑚が私を好きでなかったら──」
「え、それは想像できない」
反射的に否定した珊瑚に、弥勒は静かに微笑んだ。
「私は想像できますよ。たぶん、私はおまえへの想いを押し隠したまま闘って、生き残ったとしても、何も言わずにおまえのそばから去っていたでしょうな」
「それは……」
「なんです?」
ふと口ごもった珊瑚は上目遣いに弥勒を見た。
「なんか、勿体ない気がする。あたし、すごく勿体ないことしてるなって」
法師さまを振るなんて。
くすりと法師が笑みをこぼすと、珊瑚は恥じらうようにうつむいた。
「もし、おまえと巡り会わなかったとしたらどうだろう。おそらく私は、生涯遊行の身として、妻を持たずにいただろうな」
遠くを見るように物憂げに言う弥勒を見て、珊瑚は我知らず胸がときめくのを感じた。
(あたしと出逢わなければ、法師さまは独り身で、身を慎み、修行に励み……)
って、そんなわけがない。
「どうせ、妻を持たなくても女遊びはするんだろう?」
「はあ。それはまあ」
あっさりと肯定する夫にむっとして、珊瑚はそっぽを向いた。
「あたしだって、法師さまと巡り会わなければ、誰か他にいい人見つけて祝言をあげてるよ」
「それはありません」
「そんなの判んないじゃないか」
「いいえ。決して」
不服そうな珊瑚の視線を受け、弥勒はにっこりと断言した。
「私と巡り会わなければ、巡り会うまで、珊瑚は私を待っているはずです」
「……」
「私が遊行の旅を続けるのは、おまえを探すためですから」
「……っ」
不意に、ぽろぽろときららかな雫がこぼれ落ちた。
自らの頬を伝う涙に驚き、珊瑚は片手で口許を押さえる。
「さっ、珊瑚! なんで泣くんです」
「法、師さ……」
慌てたような弥勒の声を聞きながら、とまらない涙をどうすることもできずにいると、ほっと息を洩らした彼が力強く頭を抱き寄せてくれた。
もし、悲劇が起こらず、二人が出逢っていなかったら。
それでも、きっと互いを探し続ける。
〔了〕
2011.5.15.