珊瑚くどき

「弥勒さま」
 夜も更けた頃、ほとほとと離れの扉を叩く気配がした。
「……珊瑚か」
 荷造りの手をとめ、弥勒は振り返る。
 音もなく戸を開けて室内に滑り込んだ珊瑚は小さく息を呑んだ。
 弥勒が法衣をまとっていたからだ。
「ああ、この姿ですか」
 珊瑚の驚きに気づき、弥勒はわざと明るい声で言う。
「似合いますか? 咎めなく戦場を通り抜けるには役立つでしょう」
 そうまでして行かなくてはならないのかと、珊瑚はそっと涙を滲ませた。
 二人は許婚の関係にあった。
 今は亡き弥勒の父の腹違いの姉が、珊瑚の養母にあたる。そのような縁から、両親を亡くした弥勒は珊瑚の養父母に引き取られ、彼女と同じ屋根の下に暮らしていた。
 しかし二人を許婚にしたのは建て前で、彼女の養父母は、美しい珊瑚を有力な男に嫁がせ、自分たちも甘い汁を吸うことを密かに計画していた。
 珊瑚とその二親に血のつながりはない。
 伯母夫婦の思惑を察した弥勒は、独立して立身を計るため、家宝の名刀・村雨丸を持ち、これを人見家に献上して仕官を得ようと、今宵、旅立つ。
「どうしても行くの?」
「そんな顔をするな。仕官が叶えば、必ずおまえを迎えに来ると約束します」
「……」
「最初は傭兵として扱われるだろうし、時間はかかるかもしれんが、私がおまえのことを忘れるはずがないだろう」
「明日、祝言なんだ」
 ぽつりとつぶやく珊瑚の言葉に、はっと弥勒は瞳を上げて彼女を見た。
「……相手は。白夜か?」
「ううん、奈落。弥勒さまも知ってるだろう? 義父上も義母上も権力に弱いから」
 一度は弥勒を己の許婚と決めた養父母が、その約束をあまりに簡単に反故にしてしまうことが、珊瑚は恨めしかった。
「弥勒さまはそれでいいの? あたしが他の男に嫁いでも平気なの?」
 悲痛な珊瑚の言葉に、弥勒は黙ったまま視線をそらせ、悔しげに拳を握りしめた。
「あたしのこと、本当に想ってくれてるなら、あたしも一緒に連れてって。それが駄目なら、今ここで、あたしを弥勒さまのものにして」
「珊瑚」
 思いつめた様子の珊瑚にたまらず、弥勒はすっと立ち上がって彼女のそばへ膝をついた。
 潤んだ彼女の瞳をじっと見つめ、そして珊瑚の両肩に手を置く。
 唇が合わさる、と思った珊瑚は瞼を閉じようとして、
「って、えっ、ええっ?」
 大いに慌てた。
 先程の珊瑚の言葉の通りに弥勒は珊瑚を押し倒したのだが、彼女はそこまで考えていなかった。
「いやっ! 駄目だよ、弥勒さま」
「駄目って、おまえが抱いてほしいと言ったんでしょう」
「そりゃ言ったけど、あれはあたしの決心がそれくらい強いと言いたかっただけで、つまりあたしを置いて行かないでと……」
「私についてきたいなら、こういうことも想定のうちでしょ?」
「そうだけど、ここじゃ嫌。義母上たちにいつ気づかれるか判らないし。それに、あたしを連れていってくれたら、大事なことを教えてあげる」
「大事なこと?」
 仰向けに倒されたまま、珊瑚はこくんとうなずいた。
「弥勒さまの村雨丸、あれは偽物だよ。白夜がすり替えているんだ」
「ああ、それなら知っている」
 と、弥勒は事もなげに言った。
「もう一度すり替えさせてもらったので、いま私の手許にあるのが本物だ」
 珊瑚は唖然と弥勒を見遣った。
 憎らしいほどの余裕の笑みで、弥勒は身を起こし、珊瑚の手を取って彼女を引き寄せた。
 結局、珊瑚の養父母の目にとまらぬうちに逃げようということになり、手に手を取って、二人は逃避行を決行した。
 法師に身をやつした弥勒は、仕官の道を捨て、宝刀・村雨丸を人見家の殿様に献上どころか法外な値で売りつけた。
 充分すぎる蓄えを作って小さな村に身を落ちつけ、夫婦となった弥勒と珊瑚は幸せに暮らしている。

 ちなみに、弥勒が加わって八人になり、八犬士を名乗る予定だった七人の傭兵たちは、一人がやけに犬にこだわっていたものの、首領の鶴の一声で“七人隊”を名乗ることとなった。
 そしてその後、戦場で名を馳せたのだった。

〔了〕

2010.4.21.

南総里見八犬伝の浜路くどきのパロディ。
珊瑚の浜路と、孝など知ったこっちゃない弥勒の信乃。