まどろみ

 縁先から室内を覗くと、薄暗いそこはしんと静まり返っていた。
「法師さま、いないの?」
 一緒に夜祭りに行こうって言ったのに……
 珊瑚はつまらなげに踵を返しかけたが、ちょうど影になっている奥の壁際の黒い「もの」に気づき、足をとめた。
「……法師さま?」
 草鞋を脱ぎ、縁から部屋に上がる。
 四つん這いに這って床の上を進むと、果たして、法師はそこに眠っていた。
「法師さ──
 彼を起こそうと伸ばした手が、ふと、止まる。
 彼の寝顔など、ゆっくり見たことがあっただろうか。
 意識のない弥勒を自分が見下ろすとき、それはいつも瘴気や毒に苦しむ姿だったような気がする。
(法師さまがうたた寝なんて……珍しい)
 みなと待ち合わせをしているのであまり遅くなると困るが、もう少しだけ眠らせてあげたいと思う。
「う……ん」
 法師が寝返りを打ち、壁に向いていた顔が、床に座っている珊瑚のほうを向いた。
 不意に記憶がよみがえる。
 あのとき──、意識のない弥勒に接吻した。
 よくもまあ、あんな大胆なことが己にできたものだと、思い返すたびに今でも顔が赫くなるが、同時に湧きあがる胸のときめきは、闇夜に浮かぶ妖星のように珊瑚の心を惹きつける。
 もう一度……と思い、珊瑚はそのようなことを考えてしまう自分に羞恥した。

 でも。
 今、だったら──

 今なら、法師さまも眠ってるし……

 魅せられたように、珊瑚は無防備な寝顔を見せる法師の唇を見つめていた。

 少し、だけ──

 ぺたんと床に尻を落とし、子供のように座り込んだ姿勢のまま、ついた両手に重心をかけて身を乗り出した。
 そろそろと顔を近づけても、彼に起きる気配はない。

 徐々に視界に広がる弥勒の顔。
 涼しげな眉目。
 すっきりと通った鼻筋。
 そして、微かな吐息がこぼれる形のいい唇。

 あと少し。
 あともう少しで、触れる──

──駄目だ)
 珊瑚は弥勒の顔に重なろうとしていた顔をもとの位置に戻し、ふるふると首を振った。
(無理だよ。だってあのときは……)
 恥ずかしいとか、そんなことを考える余裕なんてなかった。
 ただ、伝えたかった。
 もう一度眼を開けて。その瞳にあたしを映して。
 祈るような想いを伝えたくて、必死だった。
 再びそんな状況でも来ない限り、自分から弥勒に口づけるなんて恥ずかしくてとてもできない。
(でも、法師さまだって、いつもあたしをからかって遊んでるんだから、少しくらい意趣返ししたって)
 何が意趣返しになるのかよく解らない理屈だったが、珊瑚は自分を鼓舞すると、再び法師に顔を近づけた。

 あと少し。
 もう少し。
 ──やだ、やっぱり恥ずかしい。

 自分の顔をおずおずと弥勒の顔に近づけ、すごい勢いで引き戻す。
 そんなことを幾度も幾度もくり返していると。
「……いつまで待たせるんです?」
 しんとした暗い室内に遠慮がちな声が響き、珊瑚はぎょっとなった。
 見ると、法師が申しわけなさそうに眼を開けているではないか。
「やだっ! 法師さま、いつから起きて──っ」
「ずっと起きてましたよ? おまえが口づけようとしてくれてたので、ずっと待っていたんですが」
 言いながら、けだるそうに身を起こす。
「いつまで待ってもしてくれないから、いい加減、疲れまして」
 驚愕に言葉もない珊瑚の腕を掴んで引き寄せると、法師は素早くその唇を奪った。
「これで満足ですか?」
 にんまりと笑む男を珊瑚は暗闇でもそれと判る真っ赤な顔で睨みつける。
「起きてるなら起きてるって、さっさと言ってよ!」
「せっかく珊瑚が私を襲おうとしてくれてるのに、そんな勿体ないことができますか」
「襲ってない!」
 すっかり御冠でそっぽを向く娘を瞳に映す弥勒の笑みが深くなる。
「そういえば、前にもこんなことがあったな」
「えっ?」
 珊瑚は驚いて法師を振り返った。
「法師さま、まさかっ! あのときのこと、知っ知っ知って……!」
 誰も見ていないはずなのに。誰も知らないはずなのに。
「あのときはおまえと私の位置が逆でしたが。ほら、ニセ水神の社で水流に呑まれて気を失ったおまえに」
「あ。気を失ったあたしにスケベなことしようとしたあのときね」
 ふっと険しくなる娘の表情に咳払いで応えると、弥勒はしかつめらしく続けた。
「助けようとしたんです」
「本当に?」
「……まあ、少しは邪心もあったかもしれませんが」
 怒りの形相で口を開こうとする珊瑚を弥勒は手をあげて制し、
「ところで“あのとき”とは?」
「え?」
「おまえも言いかけたでしょう? “あのときのこと”って」
「しっ、知らっ、知らない! 法師さまの勘違い!」
 何かある。
 と感じた弥勒がどうやってこの強情な娘の口を割らせようかと妖しげな笑みを浮かべたとき、
「珊瑚、まだかー?」
 外から七宝の声が聞こえた。
 機械仕掛けの人形のように珊瑚の身体が跳ねあがる。
「ほらっ、七宝が迎えに来たよ。みんなを待たせてるんだから、早く行かなきゃ」
 足早に縁から外へ出ようとする娘の腕をさっと法師が掴んだ。
「どんな“勘違い”なのか、帰ったらゆっくり聞かせてもらいますね」
「!」
 娘の耳に楽しげにささやき、硬直する彼女を追い越すと、彼は喉の奥でくつりと笑った。

 彼女だけの甘く切ない秘め事が、法師に知れるのも時間の問題。

〔了〕

2008.7.31.