みずうみ

 木々の梢の向こうから木洩れ日がきらきらと輝いて見える。
 珊瑚が独りで森に入ったのは薬草を摘むためだ。
 手持ちはまだあるが、時間のあるときに補充しておかなければならない。
「あつ……」
 晩夏の陽射しも森の中だとまだマシではあったが、歩き廻った珊瑚は顔を上げ、木立を抜ける風を頬に受け、汗ばむ額の髪をかきあげた。
 ふと涼風を感じ、そのほうへ歩を進めると、森の中に澄んだ湖水が姿を現した。
 珊瑚は誘われるようにそちらへ向かう。
 夏の午後、きらめく湖面は魔力を帯びたように魅力的だった。
「少しくらいなら、寄り道してもいいよね」
 自分に言いわけをするようにつぶやくと、珊瑚は草鞋を脱ぎ、脚絆を取った。
 素足になると、湖のほとりに腰掛けて、小袖の裾をたくしあげ、膝のすぐ下まで水に浸した。
「ふう、気持ちいい……」
 両手を地面につき、伸びをするように空を仰ぐ。
 どこまでも青い夏の空は、日々の闘いなど嘘のように、どこまでも遠くへと続いていた。
 静寂が心地好く、珊瑚はすっと瞼を閉じた。
 ときどき足を動かして湖の水をかきまぜる。
 それ以外の動作は何もせず、ひんやりとした水と、森を駆ける涼風だけをただ感じるままに受けていた。

 反響するしじまと小さな平和。
 それは珊瑚の意識を虚空の彼方へ運び去る。

「きゃっ!」
 じっと眼を閉じていた珊瑚は、突然、その眼を背後からふさがれ、心臓が止まるほど驚いた。
 気配を全く感じなかった。
 振り返ると、悪戯な笑みを浮かべる人物はやはり予想通りの彼であり――
「法師さま! もう! 脅かさないでよ」
 一応、文句を言ってみるが、珊瑚の心は穏やかに凪いでいた。
「珊瑚が心配させるからいけないんです。雲母も連れず、森へ入ってだいぶ経つというのに一向に戻ってこないんですから。妖怪にでも襲われたのかと思うでしょう」
「この森に妖気は感じないって、犬夜叉も法師さまも言ってたじゃないか。ちょっと休んでただけだよ」
「いいえ。このようなところで足を出して、湖の主にでも魅入られたらどうするんです」
 しかつめらしく諭す弥勒の様子に珊瑚は苦笑する。
「だって暑かったんだもの」
「では私が見張っていますから、その間であれば水浴びでもなんなりと」
 あまりさらりと弥勒が言うものだから、すぐにその意味が呑み込めず、珊瑚は眼をぱちくりさせた。
 弥勒はにっこりと笑みを崩さない。
「って、馬鹿! スケベ! なんで法師さまの目の前で水浴びしなきゃなんないの!」
 そんな抗議の声もどこ吹く風で、顔を赫くして立ち上がろうとした珊瑚の傍らにさっと膝をつき、弥勒は懐から手拭いを取り出した。
「さ、姫。おみ足をどうぞ」
 水から上げた彼女の足を手に取ろうとする。
「きゃあ! スケベ、変態!」
「人聞きの悪い。足を拭くだけですよ」
 やれやれといったふうにわざとらしく吐息を洩らすと、弥勒は珊瑚の片足首を手に取った。
「やっ、やだ、いい。自分でやる」
「他意はない。気にするな」
「気にするなったって……」
 まくった着物を膝辺りできつく押さえる珊瑚は、結局、濡れた足を法師に取られてしまった。
 仕方なく、されるがままに、珊瑚は己の足を爪先から膝まで丁寧に拭う青年の様子をちらと見遣った。
 思いのほか真剣に、彼は大切なものを扱うような手つきで珊瑚の足の水滴を拭っていた。
 そして、拭き終わると、そばに脱ぎ捨てられていた草鞋を履かせた。
 珊瑚には己の鼓動の音ばかりが聞こえる。
 そのあと法師はふくらはぎに手を伸ばし、脚絆までつけようとするものだから、その手を軽く珊瑚の手がはたいた。
「脚絆はいい。あとで自分でつける」
 仄かに頬を染め、視線を泳がせる珊瑚の様子に弥勒が微笑を洩らした。
「さて。戻りますか」
 さりげなく差しのべられた手につかまり、珊瑚は立ち上がる。
「うん。……ありがとね」
「いいえ。このようなことでしたら、いつでも喜んで」
「……も、いい」
 宝物のように扱われるのは、どうも心臓によくないようだ。
 彼女の心臓はどくどくと今も早鐘を打っていた。
「珊瑚、薬草は?」
 いたって穏やかに問いかけられ、びくりとした珊瑚は動揺している自分自身を恥じらいながら、小さな篭を持ち上げて、努めて平静に法師に答えた。
「これだけ摘んだ」
「それだけあれば、今日はもういいでしょう」
「うん、そうだね」
「次は一緒に水浴びをしましょう」
「うん、そう……って、なに言わせるのさ、馬鹿っ! しない!」
 水に濡れた足を弥勒に取られ、片足ずつを彼の手に委ね、夢見心地に浸っていた。
 それを見透かされたような気がして、真っ赤になった珊瑚は必要以上の大声を出して怒鳴る。
 彼女は恥ずかしさを紛らわせようと、ふいっと踵を返した。
「いいじゃないですか、別に。減るもんじゃなし」
 そんな娘を、くすくす笑いながら法師が追う。
 錫杖の六輪が清げな音色を響かせた。
 涼やかな風を求めて、森が深く呼吸している。

〔了〕

2009.8.23.