射干玉の

 射干玉の、という言葉が浮かぶ。
 それほど珊瑚の髪は美しい。
 朝な夕な、彼女は鏡を文机に置いて、弥勒に背を向けて髪を梳く。
 そんな妻を、弥勒は寝床に横たわり、ゆったりと眺める。
 彼女の美しさを心置きなく観賞できる、静かなひと時であった。
 ある夜、髪を梳く珊瑚の姿を漠然と見守っていた弥勒は、ふと寝床から立ち上がり、彼女の手から櫛を取り上げた。
「法師さま……?」
「前を向いて」
「やだ、何する気?」
「何って、髪を梳くんですよ」
 珊瑚の背後に膝をつく弥勒を、彼女は困ったように見遣る。
「いいよ、そんなことしなくても」
「おまえだって私の着替えを手伝ってくれたりするだろう? 梳いてあげます」
「妻が夫の世話をするのは当たり前じゃないか」
 恥ずかしそうな珊瑚に前を向かせ、弥勒は艶やかな黒髪をすくい上げた。
「ま、これも夫の特権ということで」
 繊細なものを扱うように、弥勒は右手に持った櫛を丁寧に動かす。

 さらさら さらさら

 櫛を通した癖のない髪が、しなやかに手の中からこぼれていく感触を楽しむ。

 さらさら さらさら

「なに照れているんですか」
 無言で下を向いてしまってる珊瑚の顔を覗き込み、からかうように弥勒は言った。
 火影に照らされた頬が赫い。
「だって」
 ちらと遠慮気味に横目で夫を見た珊瑚は、彼の瞳を闇のようだと思った。
 もっとよく見たくなり、文机に置いていた鏡を手に取って、背後の弥勒の顔を映してみた。
「法師さまは、綺麗」
 自然に思ったことが口に出た。
「何を言っている。おまえのほうが何倍も何万倍も綺麗ですよ」
 その間も、弥勒の手はゆっくりと珊瑚の髪を梳いていた。
 珊瑚はちょっと微笑んだ。
「ううん。法師さまは綺麗だ」
 射干玉の、という言葉が浮かぶ。
 それほど弥勒の瞳は美しい。
 鏡越しではなく、じかに彼の瞳を見たくなって、珊瑚は彼の動きを制し、後ろを向いた。
 向かい合って座り、見つめ合う形になる。
 弥勒の頬へそっと珊瑚が手を伸ばすと、弥勒もまた、櫛を置いて、珊瑚の頬に片手を当てた。
 口づけをねだられていると思ったらしい。
 弥勒は妻に唇を寄せようとしたが、珊瑚はそれを押しとどめ、問うように自分を見つめる黒い瞳を見つめ続けた。
 燈台の灯を映す彼の瞳を不思議な気持ちで珊瑚は見つめる。

 法師さまの視界に映り込んでいるあたしがいる。
 いま、法師さまが見ているのはあたしだけ。

 その瞳がまばたきをした。
「せっかく梳いたが、すぐに乱してしまいそうだ」
 かすれた声を聞き、珊瑚ははにかむように顔をうつむかせ、低い声で答えた。
「いいよ。法師さまなら」
 すぐに腕を引かれ、顔を近づけられる。
 近づいてくる弥勒の射干玉の瞳の中に、珊瑚は自分自身の姿を見た。

「珊瑚。眼を閉じて」
「あ、はい」

 瞳を閉じた珊瑚の瞼の裏には射干玉の闇があった。
 弥勒の瞳を思わせる闇の色を、愛おしいと、珊瑚は思った。

〔了〕

2010.8.1.