As You Like It
峠の掛け茶屋で、衣被きの娘が一人、茶を飲んでいる。
華やかな小袖をまとったその娘は珊瑚だ。
彼女がこんなところでこんな姿でいるのにはわけがある。
ある長者の娘をつけ狙っていた、たちの悪い妖怪を退治するため、珊瑚自身が娘になり代わり、その娘の衣裳を着て妖怪をおびき出したのだ。
飛来骨こそ持ち歩くことはできなかったが、難なく妖怪を退治し、これから帰路につくところである。
法師は別件で留守、また、女がらみの依頼に法師を同行させるのは嫌だったので、彼には内緒の仕事だった。
ひと仕事終えた満足感でほっと息をつき、手にした茶碗を腰掛けている床几に置いたとき、峠の道をこちらへ歩いてくる見慣れた人影にぎくりとした。
(法師さま?)
出先から戻ってくる弥勒とこんなところで鉢合わせしてしまった。
香を薫きしめた瀟洒な衣裳にうっすらと化粧まで施した姿を見られるのは気恥ずかしい。
珊瑚は慌ててかづいでいる被衣で顔を隠したが、すたすたとこちらへやってきた法師はうつむいた娘の顔を覗き込むようにして彼女の隣へ腰を下ろした。
「奇遇ですな、珊瑚。こんなところで何をしているんです?」
弥勒は穏やかに話しかけてきたが、「私に隠れていったい何を?」という含みが聞こえてきそうな話しぶりであった。
「あっあの、人違いでしょう。あたしは珊瑚なんて名前じゃないし」
気まずさとばつの悪さから、咄嗟に上擦った声で否定した。
「珊瑚じゃない……?」
「は、はい」
「では、何とおっしゃる?」
「さん……ええと、さ……」
「“さ”?」
つい、素直に答えてしまいそうになり、焦った珊瑚は代わる単語はないものかとめまぐるしく頭を働かせた。
そこにぽんっと浮かんだのは、ほかならぬ愛猫の顔だ。
「さ……らら?」
「讃良さま?」
「そう、さららっていうんだ――いえ、いいます」
この法師をやり過ごすのは骨だ。珊瑚はできるだけしとやかに応答する。
「私は弥勒です」
「はあ」
「みろく、です」
どうやら珊瑚が復唱するのを待っているようだ。
「み……ろくさま」
「はい」
法師は満足げににっこりとした。
「それにしても讃良さまは珊瑚によく似ておられる。あ、珊瑚というのは私の許婚ですが」
弥勒の口からそんな言葉を聞かされ、深くかぶった被衣をきゅっと握りしめる珊瑚は、嬉しさと恥ずかしさで真っ赤になった。
「おや、どうされたのです、讃良さま。顔が赫いですよ?」
「えっ? いや、今日は暑いね」
うつむきっぱなしの娘の顔を覗き込む法師から、珊瑚は慌てて顔を逸らしてむにゃむにゃと言った。
「ですが、その許婚との関係で、実は少々悩んでいるのです」
「悩み?」
物憂げにそんなことを言い出す弥勒に、急に不安が押し寄せた。
「どんな?」
「先日将来を約束したばかりなのですが、じれったいほどの清い関係で」
「……」
あれだけ人目も場所もはばからず触りまくるあんたがどの口で言う? と言いたかったが、ここはぐっと我慢する。
「あの、じゃあ、法師さまはさ、その人にどんな不満があるの?」
「弥勒」
「み、弥勒さま」
「そうですなあ」
珊瑚が言いなおしてから、法師は勿体ぶったように考え込むような眼つきをした。
「あたしをその人だと思って、言いたいことを言ってみてよ」
彼が何か自分に不満を持っているのだとしたら、自分はそれを改めよう。
そんな気持ちから出た言葉だった。
「讃良さま。珊瑚の代わりに聞いてくれますか?」
「うん……じゃない、はい。日ごろ思っていること、その人に伝えるつもりで言ってみて?」
「では失礼して」
弥勒は彼女がかづいでいる被衣をすっとどけると、真摯な瞳でじいぃっと娘の眼を見つめた。
「珊瑚」
「はっはい!」
間近で見る深い瞳と切なげな表情にくらくらとなり、珊瑚の胸が高鳴る。
「夫婦になる約束をしたのです。せめて唇くらい……いいな?」
「えっ?」
真顔の法師が迫ってくる。
「えっえっえっ?」
おたおたする珊瑚に構うことなく、彼女の両肩を掴んだ弥勒は何の躊躇いもなく唇を重ねあわせようとする。
「や!」
たまらなくなった珊瑚は反射的に法師を突き飛ばした。
「法師さま、最っ低! 相手が誰でもそんなことするんだ。変態! 助平! 馬鹿っ」
さっと右手を振りあげ、弥勒の頬を平手打ちにしようとする珊瑚の手を、法師の手が受け止めた。
「おまえが悪いんですよ、珊瑚。別人を装って私を欺こうとするから」
「……!」
法師さま、最初からあたしって解って――!
耳まで朱に染め上げた娘は驚きと気恥ずかしさで声もない。
「私がおまえを他人と間違えるはずがないでしょう」
対する弥勒はにっこりと余裕の笑み。
すっと指を伸ばし、紅を引いた彼女の瑞々しい唇を指先でなぞった。
「茶屋の男どもの目がおまえに釘づけだ。一人で行動するときは、せめて雲母を伴いなさい」
「え……」
「こういう姿もよいが、私の心配事を増やしてくれるな」
「あの……ごめん」
とりあえず謝る珊瑚に、弥勒は床几の上に落ちていた被衣をかぶせる。
「これから楓さまの村へ帰るんですか?」
「うん、仕事の依頼主のところへ寄ってから。法師さまも?」
「ああ。では、一緒に行こう」
穏やかに笑んだ弥勒は茶屋の主人に茶を頼んだが、珊瑚は、そんな彼を物言いたげに見つめている。
娘の視線に気づいた弥勒は、彼女の耳元に唇を寄せてささやいた。
「おまえに不満などありませんよ。ただ、唇を奪えたら儲け物だと思いまして」
「……馬鹿」
どうやったってこのひとには敵わない――
そんなことが悔しくて。
何故か、嬉しく感じられた。
〔了〕
2008.11.1.