君をおとなう
村のそこここに春の息吹を感じる陽気。
時折、道端の草花の匂いを嗅ぎ、時折、小さな虫たちと戯れながら、とことこと小径を行く雲母のあとを、弥勒と珊瑚はゆったりとついて歩いていた。
うららかな春の風に誘われて、静かな散歩を楽しむ。
雲母がふと立ち止まってある家へ視線を向けたので、そのほうを見遣ると、戸口の前に、竹で作った小さな鳥籠が置かれていた。
「あ」
とっさに雲母を捕まえようとして、微笑し、珊瑚は伸ばしかけた腕を引いた。──雲母はむやみに弱いものを追いかけたりはしない。
「メジロですな」
と、法師が言った。
野生のメジロを子供が捕ってきたのだろう。
鳥籠の中には、小さな草色の小鳥が一羽、高らかな声で歌うように鳴いている。
「見て。法師さま」
籠のメジロの声に答えるように、別の声がどこからともなく聞こえ、もう一羽のメジロがひらりと地面に降り立った。
ちょん、ちょん、と地面を蹴り、籠の中の仲間に近づく。
まるで挨拶でもしているように小首を傾げ、二羽のメジロは小さく鳴き交わす。
「水を渡り、また水を渡り、花を見、また花を見る。春風、江上の路。覚えず君が家に至る」
小鳥たちのやり取りを見ていた弥勒が、つぶやくように誦した。
「なんて言ったの?」
「大陸の詩です。子供の頃、夢心さまのところで経典と一緒に書を見つけ、美しい詩なので覚えてしまいました。……そうですな。
何度も川を渡りながら、
幾度も花を目に留めて、
春風の吹く川べりの路を歩いていたら、
知らぬまに君の家に来てしまった。
そんな意味でしょうか」
「なんか、いいね」
雲母の存在に気づき、再び空へと飛び立ったメジロを眼で追って、珊瑚は微笑んだ。
「春の景色に誘われて歩いていたら、知らない間に君の家に来てしまった、なんて」
そんなふうに訪れてもらったら素敵だね、と彼女はつぶやく。
「珊瑚だったら、誰に訪れてもらいたいですか?」
「あ、うん。こは──」
「男の名前を言ったら怒りますよ?」
満面の笑みを浮かべてさらりと言う弥勒に、珊瑚は慌てて口をつぐんだ。
「では、おまえがおとなうのだとしたら、誰のところへ足が向きますか?」
「うん、もちろん、こは──」
「私以外の男の名前を言ったら怒りますからね?」
男ったって、実の弟じゃないか、と珊瑚はやや釈然としない。
「じゃあ、かごめちゃんのところかな」
「かごめさまの家は井戸を通らねば行けないでしょう」
本当に行くわけではなく、何かの折にふと会いたくなるだろう人を思い浮かべてみただけだ。
なのに何をそんなにむきになるのか、珊瑚には解らない。
むすっとなって横目で法師を見遣る珊瑚に、彼はため息をついた。
「おまえの会いたい人の中に“法師さま”という選択肢はないんですか?」
「だって法師さまは」
憮然として珊瑚は言う。
「わざわざおとなうまでもなく、ここにいるじゃないか」
「……は?」
「いつも一緒にいるのに、こっちから行く必要も、来てもらう必要もないじゃない」
弥勒の眼が大きく開かれる。
「珊瑚……」
いつも隣にいるのが当たり前になっている。
珊瑚にとって、彼はそんな人。
「では、もし私が」
何故、そのようなことを口走ってしまったのだろう。
「私が死んだら──おまえは、私の墓をおとなってくれるか……?」
刹那、珊瑚の表情が凍った。
しかし、後悔した弥勒が己の言葉を撤回するより早く、彼女は表情を消し、あっさりとうなずいた。
「いいよ。お墓に花が絶えないように、季節の花を持っておとなってあげる」
「珊瑚──」
抑揚のない低い声音に泣かせてしまったかもしれないと弥勒が彼女の肩に手を置こうとしたとき、珊瑚は満面の笑みで法師を振り返った。
「法師さまが寂しくないように、亭主と一緒にお参りに行くよ」
「……」
自分に向けられた笑顔に哀しみでも寂寥でもなく、怒りを見たように思ったのは気のせいなのか。
「……て、亭主──? って、珊瑚、その……」
珍しく狼狽えたように言葉につまり、弥勒は表情を強張らせて笑顔の珊瑚を見た。
「そのとき、おまえは誰かと結婚してるのか?」
「そうなるんじゃない? だって、退治屋稼業を続けようと思ったら、女一人じゃ食べていけないよ」
「琥珀がいるだろう?」
「琥珀だっていずれ所帯を持つだろうし、琥珀のところにあたしが厄介になるわけにはいかないじゃないか」
ふいっと踵を返す珊瑚の背を、押し殺したような声が追いかけた。
「許さん」
「え?」
「もし、おれが死んだら、他の男と睦まじくやっているおまえの姿を見せつけられるのか? そんなこと許せるわけないだろう!」
怒気を帯びた口調でこちらを睨みつける法師を、珊瑚も負けずに睨み返した。
「だったら死なないでよ。死ぬなんて簡単に言わないで」
強い光を放つ瞳にはっとなる。
「珊瑚……すまん──」
黒い瞳が揺れていることに気づき、弥勒は最愛の娘を抱き寄せた。
「まとまった時間ができたら、二人でおまえの里へ墓参りに行こう」
「……うん」
艶やかな髪に弥勒が顔を埋めると、珊瑚は彼の袈裟をきゅっと握りしめた。
おとなう先は幾多あれど、この娘の隣にいていいのはおれだけだ。
そんなことを思った、うららかな或る春の午後。
〔了〕
2008.3.31.