しゃぼん玉、飛んだ
少し肌寒さは残るものの、空はどこまでも蒼く、清涼な大気が心地好かった。
村外れの道端の大きな岩の上にちょこんと座った七宝は、手に持った紙コップに細長いストローの先を浸してから、ふっと息を注ぎ込む。
ふわふわ ゆらゆら
いくつものしゃぼん玉が蒼い空に向かって飛び立っていく。
「綺麗だね」
不意に背後から声をかけられて、七宝はストローを咥えたまま振り向いた。
「それ、何?」
珊瑚の問いかけに、七宝は手にした紙コップを掲げてみせた。
「かごめが作ってくれたんじゃ。この水にこの管の先を浸して……」
説明を交えながらストローに息を吹き込むと、その先から新しいしゃぼん玉が生まれた。
「あ、今度のは大きいね」
「早く吹くと小さい玉がたくさん、ゆっくり吹くと大きい玉ができるんじゃ」
いささか得意げに言う七宝に微笑みかけ、珊瑚はしゃぼん玉へ視線を向けた。
ゆらゆらと空へ昇っていくそれらは、あるものは悠然と風に漂ってから、あるものはせっかちにぱちんと弾ける。
「あ、消えちゃった」
残念そうな珊瑚の声に、仔狐は次から次へと虹色の玉を空へと送る。
「人の心も、いつかはあんなふうに割れちゃうのかなあ」
ぽつりとつぶやかれた言葉に七宝はストローを持つ手を止めて、珊瑚を見遣った。
「あ、ごめん。嫌な気分にさせちゃったね」
仔狐の視線に気づき、珊瑚は曖昧な表情を作ってみせる。
「さっきのおなごのことか?」
「……うん。まあね」
この村に来る途中、同じ道を行く若い娘に弥勒がいつもの調子で声をかけ、ここまで同行した。
弥勒をいたく気に入った娘はこの村の者だという。
その娘は隣にいる珊瑚には目もくれず、ぜひ自分の家にしばらく滞在してほしいと法師にまとわりついていた。
「はああ……」
どんなに睨みつけても動じてくれない娘と弥勒の間に割り込むことができなかった。
そんな二人の様子を見ていられなくなって、逃げてきたのである。
法師が女にやさしいのはいつものことだし、いちいち気にしていたら身がもたないと解ってはいる。
小さな七宝にこんな愚痴を言うものではないということも解ってはいたが、どうしようもなくため息がこぼれてしまう。
「あたしって、嫌な女だな」
沈んだ口調で小さくこぼす珊瑚を七宝はしばらく黙って見つめていたが、
「大丈夫じゃ」
再びストローを咥えてしゃぼん玉を作ると、独り言のように言った。
「いざとなったら、おらが珊瑚を嫁にもろうてやる」
珊瑚を元気づけるために何気なく言ったのだろうが、その言葉を聞いた珊瑚はきょとんと愛らしい仔狐を見つめた。
「七宝が?」
「弥勒が他のおなごに目移りするようなことはないと思うが、もし珊瑚が弥勒に愛想をつかせたら、おらが珊瑚をもろうてやるから安心せい」
眼をまんまるにした珊瑚は小さく首を傾げる。
「だって、七宝とあたしじゃ、年齢が」
「愛に年の差など関係なかろうが」
「あんた、どこでそんな言葉覚えてきたのさ」
ふっと笑顔になった珊瑚はくしゃりと仔狐のやわらかな髪を撫でた。
「だから珊瑚は安心して、もっと堂々としていたらいいとおらは思うぞ?」
大真面目な顔で言う小さな妖狐の言葉にほわりと心があたたかくなったようで、珊瑚はふんわりと彼を抱きしめた。
「じゃ、約束ね。いざとなったら、あたしをもらってくれる?」
「任せておけ」
満面の笑みで自信ありげに七宝がうなずいたとき、澄んだ金属音がした。
「七宝、珊瑚。ここにいたのか。そろそろ出発しますよ」
「法師さま」
並んで岩に腰かけた珊瑚と七宝が振り返ると、いつもと変わらない法師が、いつもと変わらない微笑を湛えて立っていた。
「もう発つの? だって法師さま、今日はこの村に泊まるつもりだったんじゃ……」
「何故です?」
「え、だって、あの娘──」
言いかけて躊躇い、眼をそらす珊瑚の言葉を、法師はやわらかく遮った。
「犬夜叉は先を急ぎたいようですし、今日、この村にとどまる理由もありませんから」
さ、行きましょう、と促す法師に、珊瑚と七宝は立ち上がった。
「ね、七宝。それ、やらせてもらってもいい?」
三人で犬夜叉たちのもとへ向かう道すがら、珊瑚は弥勒の肩に乗る七宝の手の紙コップを指差した。
笑顔の七宝からそれを受け取り、歩きながら石鹸水に浸したストローをそっと吹いてみる。
細い管の先からいくつもの玉が生み出され、きらきらと空へ舞っていく。
「綺麗」
虹色に輝いて、風に乗って空へと昇っていく。
割れても、もっと美しい玉をまた作ればいい。
上機嫌でしゃぼん玉を作る珊瑚の少し後ろを歩く法師は、小さな声で仔狐にささやいた。
「聞いちゃいましたよ」
「何をじゃ?」
「おまえ、珊瑚を口説いてたでしょう」
ぎくりとして法師の顔を窺うと、表情は穏やかなのに眼が笑っていない。
おらにまでやきもちを焼くか、と七宝は呆れてため息をついた。
「おらに珊瑚を取られたくなければ、もう浮気なぞせんことじゃな」
「浮気なんかしてませんよ?」
しゃぼん玉を吹きながら前を歩く娘に向けられた法師の視線は驚くほどやさしかった。
「どうだかのう。珊瑚に愛想をつかされてもおらは知らんぞ」
「大丈夫ですよ。珊瑚が私に愛想をつかせることなどありえませんし、私が絶対そうさせません」
あちらの二人にもこちらの二人にも冷や冷やさせられることが多いが、誰一人悲しい顔をさせたくない仔狐は、法師の耳にささやいた。
「約束じゃぞ?」
「ああ。男同士の約束だ」
陽光を受けてしゃぼん玉がきらきらと光る。
空高く昇っていく無数の玉を目で追う娘の横顔を瞳に映しながら、その笑顔を守ることを法師と仔狐はそっと誓った。
〔了〕
2008.2.29.