ささめごと
珊瑚が楓の小屋へ戻ってきたとき、中にいたのは弥勒一人だった。
背筋を伸ばして壁際に座る彼は、静かに眼を閉じている。
珊瑚はそっと室内へ上がり、自分の荷を置いた場所に腰を下ろすと、音を立てないように武具の手入れを始めようとした。
「お帰りなさい、珊瑚」
不意に声をかけられて、彼女は驚いたように顔を上げた。
「あ、ただいま、法師さま。起こしちゃった?」
「寝ていたのではありませんよ」
眼を開けた弥勒は苦笑を洩らす。
「瞑想していたんです」
「瞑想って、“無”になるの?」
「ええ、自らの内面を見つめます。でも、こんな旅ですから、つい、実用的なことも考えてしまいがちですな」
「実用的なことって?」
法師は指を折って数える。
「怪しまれない宿の頼み方とか、緊急の出費の際にうまく値切る方法とか、妖怪退治の値のつり上げ方とか」
「……法師さま、怪しすぎ」
「あとは、そうだな、おなごに受けのいい話題とか」
「もういい」
珊瑚はややむっとしたように、法師から眼を逸らした。
闘いが終わったら一緒になろうと約束したのに、彼は平気で他の女たちへも興味を示す。
むすっとなって、珊瑚は武具の手入れに集中しようとした。
「でも、最近はもっぱら、おまえのことを考えていますよ」
「……」
気づいたら、いつの間にか立ち上がっていた弥勒が、珊瑚のすぐそばに膝をついた。
そして、彼女の顔を覗き込むように顔を寄せてくる。
「ちょ、ちょっと」
座ったまま、後退さろうとする珊瑚だが、すぐ後ろは壁で、追いつめられて、逃げ場を失う。
壁を背にして硬直する珊瑚に覆いかぶさるようにして、弥勒は片手を壁につき、娘の瞳を覗き込んだ。
逃げられない。
顔がこんなに近い。
狼狽した珊瑚はぎゅっと眼をつぶった。
息を殺していると、閉じた瞼の向こうに弥勒の影がかかり、──
小屋の入り口の簾が揺れた。
「ただいまー」
かごめの明るい声が響く。
現代から戻ってきたかごめは、室内にいる弥勒と珊瑚に笑顔を向けた。
「お帰りなさい、かごめさま」
法師は何事もなかったように静かに座し、珊瑚はこちらに背を向けて、武具の手入れを行っているようだ。
「いつもごめんね、あたしの都合で。あたしが留守の間、何もなかった?」
「ええ。穏やかなものですよ」
「犬夜叉たちは?」
「犬夜叉も七宝も、楓さまのお手伝いです」
ふと、かごめは、背を向けてうつむいたままの珊瑚に目をやった。
「珊瑚ちゃん、具合が悪いの? 大丈夫?」
室内に入って荷物を置いたかごめは、珊瑚の顔を覗き込もうとする。
「顔、赫いよ?」
珊瑚はとっさに口許を押さえた。
かごめも仲間たちも、皆、彼女と法師の関係を知っている。
将来を約束したことを告げようとしたときも、もう皆すでに、その事実を知っていた。
応援してもらうのはとても嬉しい。
でも、自分だけの秘密にしておきたいこともある。
(あたしと、法師さまだけの秘密)
「珊瑚ちゃん?」
「だ、大丈夫、かごめちゃん」
顔を伏せ、片手で口許を押さえたまま、珊瑚はあたふたと立ち上がった。
「でも、ちょっと暑いかな。水もらってくる」
「あ、珊瑚ちゃん、水なら甕に」
そそくさと草鞋を履き、土間に置かれた水甕の前を素通りして、赫い顔の珊瑚は出ていってしまった。
弥勒が静かに立ち上がった。
「私が様子を見てきましょう。そろそろ犬夜叉たちも戻る頃ですよ」
「あ、うん。お願いね、弥勒さま」
錫杖を手にし、鷹揚に小屋を出た弥勒は、ふと、指先で己の唇に触れた。
(瞑想しながら考えていたこと……か)
愛しさがあふれ、果てしなくやさしい、やわらかな笑みがこぼれた。
〔了〕
2014.9.12.