My Sweet Valentine

 大学に程近いティールームの窓際の席で、珊瑚はもう二時間も待ちぼうけを食わされていた。
 時間に正確な弥勒が珊瑚を呼び出し、これほど待たせることなど皆無に等しい。
 予想されることはただひとつ。
(きっと女につかまってるんだ……)
 二月十四日。
 今日はセントバレンタインデーなのだから。
 二杯目の紅茶のカップを両手で持ち上げ、珊瑚はぼんやり窓の外を行き交う人々へ眼をやった。
「遅くなってすみませんっ」
 突然、からん、とティールームの扉に取り付けられたベルが鳴り、同時に息を切らせた彼の声が耳に飛び込んできた。
「二時間六分十一秒の遅刻」
 腕時計から弥勒へと向けた珊瑚の視線が、たちまち険しさを増した。
 彼が持っている大きな紙袋に詰め込まれた、色とりどりに可愛くラッピングされたものが何なのか、考えずとも一目瞭然だ。
(あんたはチョコのセールスマンか!)
 珊瑚は苛々と心の中で突っ込む。
「いやあ、まいりました」
 そんな珊瑚の苛立ちを意に介するふうもなく、弥勒は彼女の向かい側に腰を下ろした。
「不可抗力とはいえ、おまえを待たせるなんて彼氏失格ですな」
「誰が彼氏だ」
 二人は珊瑚が中学に入学して以来のつきあいだ。
 それから、高校、大学と、二年先輩の弥勒と同じ学校を選んで珊瑚が進学したのは、彼と一緒にいたかったということに他ならない。
 けれど、彼女が弥勒と知り合ったとき、すでに彼には多くのファンが存在し、彼はいつも女生徒たちに取り巻かれていた。
 彼からは冗談っぽく好意を告げられることもあったが、その他大勢の一人として扱われるのが嫌で、珊瑚は彼に一番近い異性の後輩として接することを選んできたのだ。
 それでも、こうして弥勒に誘われれば嬉しさを隠しきれないし、彼が他の女性と親しげにしている姿を見れば面白くない。
「はたから見れば彼氏でしょう? 現に今日だって、みなからおまえとの関係をしつこく訊かれて、こんなに遅刻してしまったんですから」
「でも、もらうものはしっかりもらってるよね」
 珊瑚がちらと弥勒の荷物――チョコが詰まった紙袋二つ――を見遣ると、弥勒は悪びれもせず、破顔した。
「嬉しいですな。妬いてくれるんですか?」
「別に。いつものことだし。で、用って何?」
 不機嫌な珊瑚がティーカップに口をつけて短く問うと、弥勒は信じられないというような表情を見せた。
「何って……おまえ、今日が何の日だか知らないんですか?」
「バレンタインだろう? だから先輩、チョコ、そんなに」
 再び彼女が弥勒の荷物を目で示すと、弥勒はじっと彼女を見つめ、おもむろに手を差し出した。
「……な、なに?」
「そこまで解っているなら、焦らさずに早く渡してください」
「先輩、甘いもの苦手だろ?」
 弥勒は、はああ、と大きなため息をつく。
「今年も駄目なんですか? 中学の頃からのつきあいだというのに、おまえは一度も私にチョコレートをくれんのだな」
「先輩以外にだってあげてないよ」
「当たり前です。そんなことされたら黙ってはいません」
 注文を取りにきたウェイトレスにコーヒーを頼んでから、弥勒は表情を改めて珊瑚を見た。
「いいですか、珊瑚。私たちは運命の赤い糸で結ばれている」
「腐れ縁ともいうね」
「では、どうしておまえは高校も大学も私のあとを追ってきたんだ?」
「それは……」
 珊瑚はうつむいて口ごもる。
 彼のことが好きだからに決まっている。
 でも、弥勒にとってたった一人の存在になれないのなら、失恋という現実をはっきりつきつけられるより、このまま曖昧な関係を続け、少しでも長く彼のそばにいられるほうがいいと思っていた。
(逃げてるんだって解っているけど)
「そろそろ真面目に考えてくれませんか」
 静かな弥勒の声に、珊瑚は顔を上げる。
「え? 何を?」
「私の気持ちは知っているんだろう」
「知らない。いつも女の子を何人もはべらせて、へらへらしてる先輩の気持ちなんか解んない」
 うつむく珊瑚を見つめる弥勒の瞳はどこか寂しげに見えた。
「七年間――いや、もうすぐ八年になるか。私が大学を卒業しても、おまえには私を追ってきてほしい」
「同じところに就職しろっていうの?」
「いや、言い方が悪かったか。就職は就職でも永久就職というやつです。……私のところへ」
 珊瑚は唖然と弥勒を見た。
「え……だって。あたしたち、つきあってもいないのに」
「高校時代からつきあってほしいと何度も言ってきたでしょう? 私の大学卒業とともに婚約、珊瑚の大学卒業とともに結婚という計画を立てているのに、いつまでもおまえが煮え切らないので話が進まん」
 かちゃりと、白いソーサーの上で紅茶のカップが音を立てた。
「だって、弥勒先輩、高校時代もいろんな女の子とつきあってて」
「おまえを妬かせたかったんですよ」
 ため息まじりに言い放ち、弥勒はやや自嘲気味に頬を緩めた。
「私も幼かったんだな。おまえの気を惹きたかっただけで、真剣につきあった娘など一人もいません」
「……」
 大きく眼を見開いてまじまじと自分を見つめる珊瑚の視線に、彼はいくぶん照れ臭そうだった。
「あの、それ、いつもの冗談?」
「おまえを好きという気持ちには、冗談など欠片もありませんよ」
 珊瑚は息を呑み、ほんのり染まった頬を隠すように下を向いて両手で持ち上げたカップに視線を落とした。
「私のほうは、おまえを狙う男どもを牽制するのに必死だったんですがね」
「えっ?」
 驚いた珊瑚が彼の顔を見ると、弥勒は包み込むようなやさしい眼差しで、珊瑚をじっと見つめていた。
 いつも気づかない振りをしてきた頬の熱さと高鳴る鼓動を、今、珊瑚は意識せずにはいられなかった。
 目の前にいる青年が好きなのだという、その自覚。
 視線を泳がせる彼女に微笑し、弥勒はさりげなく店内を見渡す。
「コーヒー、遅いな」
「あっ、あの、これ、よかったら」
 反射的に珊瑚は手にしたティーカップを弥勒に差し出した。
「のど、渇いてるんだったらあたしの飲んでいいよ」
 上擦った声でつっけんどんに言う彼女に淡い微笑みを向け、弥勒は、ティーカップを受け取り、口をつけた。
 甘い紅茶。
 甘い香り。
 チョコレートの、――香り?
「珊瑚、これは……」
 珊瑚は真っ赤になって横を向いている。
「あ、あたしが好きなんだもん、チョコレートティー」
 赫い顔で頬杖をついて視線を窓の外に向ける珊瑚に、弥勒の笑みが深くなった。
「……あの、先輩?」
「うん?」
 紅茶を飲む弥勒から眼をそらせたまま、珊瑚は意を決して口を開いた。
「あまりものでよかったら、家族用に作ったブラウニーがあるけど、要る?」
「ブラウニー? おまえの手作り……?」
 毎年、渡せないチョコを手作りしていたなんてとても言えないけれど。
 彼のためにそれを作ったことは、珊瑚の横顔の表情だけで、弥勒には解ってしまったようだ。
「もちろん、いただきますよ。今、持ってきてるんですか?」
「ううん。マンションの部屋に」
 彼女は大学に通うために独り暮らしをしている。
 テーブルの上の彼女の手を、弥勒の手が包み込むように握りしめた。細い指先がぴくりと震える。
「取りに行ってもいいですか?」
「……うん。コーヒーくらいなら出せるよ」
「当然、泊まっていってもいいんですよね?」
 悪戯な響きを含んだ声に、かああっと全身が熱くなった珊瑚はとんでもないというように屹と弥勒を睨み付けた。
「調子に乗るな、馬鹿!」
 それでも、桜が咲く頃までには、友達以上恋人未満のこの関係が大きく変わる予感がする。
「ホワイトデー、期待しててくださいね」
「いいよ、別に。お返しなんて」
「婚約指輪をプレゼントしますから」
「こっ、こ、婚約っ?」
 思わず固まる珊瑚に満足げな笑みを向け、握った彼女の手を引き寄せて、弥勒は、誓うようにその左手の薬指にそっと唇を当てた。
 幸せなチョコレートティーの甘い香りが、二人の間に揺れていた。

Fin.

2009.1.16.