誰が袖ふれし
「弥勒? 弥勒じゃねえか?」
そろそろ日も暮れようかという頃。
珊瑚と二人、楓の村への帰路についていた弥勒は、聞き覚えのある声にぴたりと足をとめた。
彼の隣を歩いていた珊瑚も立ち止まり、振り向くと、そこには弥勒と同じような年恰好の僧形の青年がいた。
弥勒と同様、剃髪もしていないが法師らしい。
「久しぶりだな、弥勒。夢心さまの寺によったら、おまえがこの辺りの村に住みついていると聞いたんで、様子を見に来たんだ」
「見に来んでいい」
ぼそっと洩れた低い声に珊瑚がまばたきをしたが、相手の男は意に介するふうもなく馴れ馴れしく法師の肩に手をかけた。
「風穴、消えたんだってな。祝いに、これからぱーっと遊びに行かないか」
「私はこれから家で夕餉なので、おまえ一人で行きなさい」
「なに所帯染みたことを言ってんだよ。弥勒法師ともあろう者が」
そう言って、弥勒の傍らにしとやかにたたずんでいる娘に視線を移すと、男はにっと破顔した。
珊瑚も慌てて会釈を返す。
「なんだ、すげえ別嬪つれてるじゃねえか。おれにも紹介――」
「嫌です」
法師がさっと珊瑚の前に立ち、男の目から彼女を隠すようにしたので、珊瑚は眼をぱちくりさせた。
「法師さまの知りあい? だったら、あたしも挨拶を……」
「駄目です。好青年に見えるが、こいつはとんでもない女好きの破戒法師だ。目を合わせるな、珊瑚。喰われるぞ」
「そういう法師なら他にも一人知ってるよ。どういう知りあいなの?」
小声で交わされる法師と珊瑚の間に、その破戒法師が割って入った。
「夢心和尚は知ってるかい? おれも一時、弥勒と一緒に夢心さまの寺に厄介になってたことがあってね。兄弟弟子ってやつ」
つまり、夢心のところで一緒に悪いことを覚えた仲だという。
「で、あんたは?」
「珊瑚です。法師さまの昔馴染みなんだったら、うちで夕餉を食べていけばいいよ。積もる話もあるだろうし」
「あんたが酌をしてくれるんだったら」
「集真!」
珊瑚の肩を抱こうとした相手の手をはたき、弥勒がやっと彼の名を呼んだ。
「珊瑚には手を出すな」
「いいじゃねえか。こんな美人を独り占めなんてずるいだろ」
「珊瑚はおれの妻だ。ちょっとでも手を出そうとしたら、容赦しねえからな」
平素の温厚さをかなぐり捨てて凄む弥勒の様子に、集真はいささか驚いたようだった。
唖然と口をあけて、穴があくほど法師と珊瑚を見比べている。
「妻? 嘘だろ、おまえが所帯を持つなんて」
この集真という法師は弥勒をどういう人物として捉えていたのだろう。
逆に、珊瑚は少しばかりの興味をいだいた。
自分の知らない夫の話を聞きたい気持ちもある。
「集真法師……さま? たいしたもてなしもできないけど、遠慮しないで」
「あ……ああ、ありがとう。では妻女どののお言葉に甘えよう。いいだろう、弥勒?」
「しょうがない。ただし、珊瑚には近寄るなよ」
「解ったって。そう睨むな」
錫杖を鳴らし、不承不承ながらも並んで歩を進める弥勒の様子を、集真はさりげなく観察する。
「弥勒。なんか……変わったな、おまえ」
「そうか? おまえは相変わらずのようだがな」
弥勒はふっと不敵な笑みを見せた。
変わったことを自覚しているらしい弥勒の口調に、集真は口許に微かに苦笑を浮かべた。
何が彼を変えたのだろうか。
右手の呪いがなくなったから?
いや、そうではないだろう。
二人の背後を慎ましやかに歩く美しい娘にちらりと視線を送る。
集真の視線に気づいた彼女は小さく微笑を返した。
(珊瑚――といったか)
この娘の存在が彼を変えたに違いない。
花から花へと渡り歩いていた過去の兄弟子を思う。
しかし、今の彼は他の花など目に入らぬらしい。
(弥勒法師を変えた女か)
興味をそそられる。
「おい、どこを見ている」
横目で珊瑚を見つめていると、唐突に錫杖で頭を殴られた。
「ってえ! 乱暴なところはそのままじゃねえか」
「珊瑚を見るなと言ってるんだ」
「見るくらいいいだろうが。あまりうるさくすると、昔の悪行を妻女どのにばらすぞ」
そんな二人を珊瑚は微笑ましげに眺めている。
「大丈夫だよ、集真さま。法師さまのことなら、ちょっとやそっとのことじゃ驚かないから」
「では、妻女どのは弥勒の過去の女関係も全てご存じか?」
「えっ?」
弥勒の顔が蒼ざめ、珊瑚の表情がわずかに引きつった。
「想像はつくけど……あまり聞きたくないかも……」
「しかし、昔の弥勒の話は聞きたいだろう?」
「うん、まあ」
集真は勝ち誇ったように弥勒を見遣る。
「おまえと昔語りをするより、妻女どのと語りあうほうが楽しそうだ」
「集真、てめー!」
「妻女どのに手は出さん。安心しろ」
短い間でも、ともに夢心に学んだ兄弟子の幸福を邪魔する気はない。
集真は楽しげに笑った。
「そんな言葉を聞いても信じられるか」
「法師さま、じゃあ、あたしを信用してよ」
とりなす珊瑚のひと言に弥勒はしぶしぶうなずく。それだけで、二人の仲睦まじさを窺い知るには充分だった。
己の知らない弥勒を知る青年法師の話に耳を傾けたい珊瑚。
手の早い昔馴染みから珊瑚を守ろうとする弥勒。
己が知る弥勒をこんなふうに変えた娘に興味津々の集真。
そんな三人がどのような昔語りで夕餉の席を飾ったのか。
――それはまた、別の話。
〔了〕
2009.5.31.
集真という名前は集真藍(あづさい=あじさい)から