恋人の距離と定義
何かに揺られる浮遊感の中で、珊瑚は眼が覚めた。
脳震盪を起こしたあとのように、鈍い頭痛を感じる。
けれど、規則的に揺れる感覚はあたたかくて安心感があり、梢で微睡み、風に吹かれているような心地好さだった。
ここはどこなのか。
「気がつきましたか、珊瑚」
「……!」
すぐ上から弥勒の声が聞こえ、驚いて眼を上げると彼の顔があった。
彼女は彼の腕に横抱きにされている。
揺れていたのは、彼が歩いていたからだった。
「ほ、法師さま……」
足をとめた弥勒が淡く微笑し、珊瑚は恥ずかしさのあまり、真っ赤になって全身を硬直させる。
「先ほどの戦闘で気を失ったんですよ」
と、弥勒が説明するが、珊瑚は羞恥で消え入りそうだった。
「妖怪がまき散らした毒に催眠作用があったようです。珊瑚は風下にいたでしょう? まともに吸ったようですが、もう大丈夫ですよ」
「あ、珊瑚ちゃん、気がついたのね」
「えっ?」
今さらだったが、二人きりではなかった。
一行は次の村へ向かう道を歩いている途中で、犬夜叉が飛来骨を持ち、変化した雲母が珊瑚の荷を首に巻いている。その猫又の背に乗った七宝が、錫杖を持っていた。
「あ、あたし」
「珊瑚ちゃん、気を失ったのよ。あまりぐずぐずしていられなくて、犬夜叉が珊瑚ちゃんを運ぼうとしたんだけど、弥勒さまが自分で運ぶってきかないから」
少し前を歩いていたかごめが、珊瑚を抱きかかえた弥勒のもとまで引き返してきた。
告白劇があって、まだ日も浅い。
法師と退治屋の距離の変化にかごめは興味津々で、楽しそうに二人の様子を見守っている。
犬夜叉も二人のほうへやってきた。
「小袖のまま、無理して応戦しようとするからだ。ったく、あんなの、おれに任せとけばよかったのによ」
皆に心配をかけてしまったらしい。
「あの、法師さま。降ろして」
「まだ無理しないほうがいいですよ」
「大丈夫……」
一人で立つと眩暈がしたが、それは妖怪の毒のせいなのか、羞恥で火照るせいなのかは判らない。
「珊瑚ちゃん、少し休んでく? あたしたちは先に行ってるから」
「おい、人里に泊まりてえんだろ? 遅くなるぞ」
「少しは気を遣ってあげなさいよ、犬夜叉。先に行って、今晩泊めてくれる家を探しましょ」
かごめは雲母の上の七宝を抱き上げ、犬夜叉を促すと、法師と珊瑚と雲母をその場に残し、軽やかに手を振って行ってしまった。
手許に武器がないと不安だろうということで、法師の錫杖と一緒に飛来骨も残されている。
二人きりになり──雲母はいるが──珊瑚はどぎまぎと弥勒の様子を窺った。
「……ごめんね。重かっただろ」
「いいえ。正直、もう少し抱いていたかったです」
弥勒は変わらず泰然として、珊瑚は頬に熱を覚え、彼から斜めに視線を逸らした。
「移動なら、雲母に頼んでくれたらよかったのに」
ぶっきら棒に言ったのは、明らかに照れ隠しだ。
「意識がなかったのですから、雲母だと不安定でしょう?」
「犬夜叉になら、以前、気を失ったときに負ぶってもらったことがあるよ」
弥勒から竹筒を手渡され、珊瑚は水を飲み、喉を潤した。
「それは私が嫌だったんです。解りませんか? 察してください」
娘の頬がぽっと染まる。
「なんか、法師さま、少し変わった? あの約束……してから」
彼女に向けられる彼の視線や口調、態度の印象が、どこか甘さを帯びるようになった気がする。
「もう、気持ちを隠す必要がなくなりましたからな。私たちの関係はすぐには変えられませんが、約束をしたことで、堂々と珊瑚の一番近くにいられる」
珊瑚の胸が仄かに甘くときめいた。
いつの間にか珊瑚の肩に乗っていた雲母が、みゅう、と、反論するように声を上げた。
「まあ、雲母には敵いませんが」
くす、と微笑みを交わし合い、弥勒は錫杖を持ち、珊瑚は雲母に預けていた荷を背負った。
法師が線引きしていたもの、それが緩くなった。
「この際ですから、元気が出るおまじないをしてあげましょう」
「何をするの?」
振り返って法師を見上げた珊瑚の額に寄せられた唇が、そこに軽く口づけた。
「!」
「さあ、私たちも行きましょうか」
だが、珊瑚は胸の高鳴りに足がすくんでしまった。
弥勒は楽しげに彼女を見遣り、からかうような声をかけた。
「おまじないが足りませんか? 歩けないなら、もう少し私が運んであげましょうか」
「……いい」
小さく呼吸をして、鼓動を鎮め、珊瑚は恥ずかしげに飛来骨を持ち上げた。
「もう元気になったから」
伏し目がちに緊張している様子が愛らしい。
愛しい娘のはにかむ様を見て、弥勒は微笑む。
将来を約束しても、仲間でもある今は、互いが互いに溺れるわけにはいかない。
それぞれが自分の足で歩いていかなくてはならないのだ。
奈落を倒し、自由になるまで。
〔了〕
2013.10.14.