年越ゆる
闇色の空から鐘の音が聴こえ始めた。
嫋々と響くそれは、古い年から新しい年へと変わる合図。
「始まりましたか」
小屋の中の囲炉裏に火をくべ、除夜の鐘の音に耳を傾けていた珊瑚は、愛しいひとの声に顔を上げた。
たったいま戻ってきた彼は戸を閉めた。
「七宝は寝てしまったようですな」
珊瑚は、自分の膝を枕にすっかり寝入ってしまった仔狐に視線を落とした。小さな妖狐が風邪を引かぬよう、その身体には暖かな夜着が掛けてある。
「うん、歳神様を迎えるんだって、さっきまで頑張って起きてたんだけどね」
言いながら、傍らに座した法師に視線を移し、
「結局、除夜の鐘が始まる前に寝ちゃった」
くす、と笑んでみせた。
穏やかなその笑みに法師も笑顔を返す。
「甘酒をいただいてきました。温まりますよ」
弥勒は、持ってきた茶碗を珊瑚に差し出す。
ありがとう、と両手で茶碗を受け取った珊瑚は、こくりと甘酒を喉に通すと、美味しい、と再び弥勒に笑みを向けた。
「この一年、いろいろなことがあったな。しかし、何より大きなことは、おまえに出逢えたことだ」
「うん、あたしもそう。つらいこともたくさんあったけど、法師さまと出逢えて本当によかった」
もう一口、甘酒を口に含み、珊瑚は茶碗を法師に返した。
受け取った甘酒に今度は弥勒が口をつける。
「こうしておまえとともにひとつ年を取り、新たな年を迎えられることが喜びだ。来年の今頃は、ともに除夜の鐘を聴く者がもう一人増えているかもしれんな」
「うん。来年は、きっと琥珀も一緒だね」
嬉しそうに言葉を返す珊瑚に、弥勒は小さく吐息をつく。
「そういう意味ではなくて。いえ、もちろん琥珀も一緒でいいのだが、私が言ったのはおまえの腹の中にもう一人、という意味です」
法師からまた茶碗を手渡され、ほんの少し手が触れて、珊瑚の指がぴくりと震えた。
「法師さま──」
軽く眼を見張った珊瑚が顔を上げると、極上の笑みを湛えた法師がやさしくこちらを見つめていた。
茶碗を受け取った愛しい娘の手に弥勒が己の手を重ねる。
「おまえによく似た女の子がいいな」
「……七宝みたいな男の子でもいいよ……?」
そっと眼を伏せた珊瑚が小さな声で言うと、弥勒は少しだけ拗ねたような声を出した。
「法師さまみたいな、とは言わないんですか?」
自分の手に重ねられる弥勒の手の温もりと彼の言葉に幸福を覚え、その幸福が実現することを清夜の鐘の音に願う。
ほんのりと染まった頬を隠すようにうつむいたまま、珊瑚はちらと上目遣いで法師を見た。
「うん──法師さまみたいな子。でも、不良で詐欺師で浮気な子にはさせないからね」
照れ隠しにつけ加えた言葉に弥勒は、はあ、とため息をこぼした。
「……その不良で詐欺師で浮気な男に惚れたくせに」
ぽつりと洩らされた法師のつぶやきに頬の熱が上がっていくのを感じ、甘酒の茶碗をひったくった珊瑚は、くくく、と残りを一気に飲み干した。
「ぷはあっ」
「珊瑚」
「……」
「珊瑚、顔が真っ赤ですよ?」
「甘酒のせいだよっ」
弥勒の忍び笑いをかき消すように茶碗を乱暴に床に置くと、思いのほか大きな音を立てた。
慌てて、身じろぐ七宝の頭を撫で、夜着を掛けなおしてやる珊瑚の肩を、法師がそっと押さえた。
珊瑚がそちらへ顔を向けるのと同時に彼女の唇に彼の唇が触れる。
「実はまだあるんですよ、甘酒。飲むでしょう?」
悪戯が成功した子供のような表情で背後に隠していた瓶子を片手に持って掲げてみせる法師を、珊瑚は眼をぱちぱちさせて見つめていたが、やがて、やわらかく微笑んだ。
「うん。もらう」
七宝の身体を夜着の上からぽんぽんと軽く叩く珊瑚に微笑み返し、弥勒は床に置かれた茶碗に新たに甘酒を注いだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
「来年も再来年も、その次の年も。ずっとずっと、ともに、歳神様を迎えましょう」
「……うん」
ひとつの茶碗の甘酒を少しずつ交互に飲みながら、鐘の音に耳を澄ます。
そんな年の夜。
静寂なる夜。
春は、すぐそこまで来ている。
〔了〕
2007.12.28.