椿の誘惑

 ゆっくりと唇が離れた。
 ここは宿屋の一室。
 きちんとたたまれた夜具と衝立が壁際に寄せられ、弥勒と珊瑚は、その衝立の蔭で、こっそり口づけを交わしていた。
 仲間たちは顔を洗いに行っている。
 口づけの余韻に浸るように見つめあい、弥勒の指が、珊瑚の唇をそっとなぞった。
「少し、荒れているな」
「あ……うん。そうなんだ」
 こんな、荒れた唇で口づけを交わすなんて、弥勒には興ざめではないかと珊瑚は少し恥ずかしく、悲しく思った。
「ごめんね」
「どうして謝るんです? だが、そうだ、ちょっと待っててください」
「どうしたの?」
「宿の人に聞いてきます。珊瑚はここにいなさい」
 不思議そうな珊瑚を残し、弥勒は部屋を出ていった。

 犬夜叉たちが部屋に戻ってきた。
 もうすぐ、朝餉が部屋に運ばれてくるはずだ。
「あれ、弥勒さまは?」
「なんか用があるみたいで出てったんだ。すぐに戻ってくると思う」
「そう」
 と、うなずくかごめの後ろに、法師が姿を見せた。
「珊瑚。話をつけてきました。椿油を少し分けてくださるそうですので、ご厚意に甘えましょう」
「椿油?」
 犬夜叉とかごめが怪訝な顔をした。
「そんなもん、何に使うんだ?」
「珊瑚の唇が、少し荒れているんです。このままでは可哀想なので、何かないか、宿の方に聞いてきたんですよ」
「珊瑚ちゃん、唇、荒れてるの? あたし、リップ持ってるわよ、薬用の。言ってくれればよかったのに」
 珊瑚に対する弥勒の対応を微笑ましく思い、かごめはにっこり笑って言った。
 だが、
「……なんで気づいたんだ?」
「え?」
 ぽつりとこぼれた犬夜叉の疑問に、一同は動きをとめて彼を見る。
「珊瑚の唇、荒れてるか? 薬油が欲しいって、珊瑚から言ったわけじゃねえんだろ? なんで──
 一同の視線が犬夜叉から珊瑚に移る。
 少し離れた場所からは、彼女の唇は健康的な美しい桜色で、特に荒れているようには見えなかった。
「……」
 即座に固まる弥勒と珊瑚。
 珊瑚は頬まで染めている。
 二人の様子から、犬夜叉とかごめは、彼らの間に何があったか判ってしまった。
「なんじゃ? どうしたんじゃ、みんな?」
 雲母を抱いて無邪気に声を上げる七宝に答えを返す者はなく、
「おめえら、余裕だな」
「仲いいわねー」
 照れくささを隠すようにぶっきらぼうな犬夜叉と恥ずかしそうなかごめは、そろって赤くなって二人から目を逸らした。
「さて。珊瑚、行きましょうか」
 珊瑚の手を取り、弥勒は椿油をもらうためにおもむろに部屋を出る。
 何食わぬ顔で部屋の板戸を閉めて、そして、法師と退治屋の娘は気まずそうに顔を見合わせた。
「すまん。バレてしまったな」
「……法師さまのせいじゃないよ」
「ああ、おまえのせいだ」
 彼らしからぬ言葉の意味を量りかね、珊瑚は法師の眼をじっと見つめた。
「おまえの唇が、私を誘惑するから」
 ささやきと同時に彼の指が彼女の顎を捉えた。
 宿屋の廊下にひと気がないことを確認し、弥勒は珊瑚の唇に己の唇をそっと重ねた。

〔了〕

2011.1.20.