梅が香

 朝日のまぶしさが目に痛い。
 珊瑚はがんがんする頭をかかえて、身を起こそうとした。
 寝間ではなく居間の床の上に寝ていた。弥勒の袈裟を身体の上に掛けられて。

 確か昨日、法師さまの兄弟弟子という人に出会って……
 その人をもてなして一緒に酒をつきあって……
 法師さまの昔の話をたくさん聞いて酒をつがれて……

「大丈夫か、珊瑚」
「法師さま、頭痛い……」
 気遣わしげに傍らに膝をついた人物の法衣を掴み、珊瑚はその肩の辺りに額を押し当てた。
「二日酔いだな。水を持ってこようか?」
「お願い……」
 消えてしまいそうな声で珊瑚は答える。
 客人を迎えて、とんでもない失態だ。
 朝餉の用意も弥勒に手伝ってもらわねばならないだろう。
 水を汲みに行った彼は間もなく戻り、珊瑚の手に水を満たした柄杓を持たせてくれた。
 ふらふらする彼女の身体を抱きかかえるようにして支えてくれて、柄杓を持つ頼りなげな手にも手を添えてくれる。
「一人で飲めるか?」
「大丈夫」
 冷たい水を口に含んで、少しほっとして、珊瑚は法師の胸にしなだれかかった。
「ごめん、法師さま。ちょっとだけ」
「ああ、いくらでも」
 だが、水を飲んで少し気分が落ち着くと、珊瑚は妙な違和感を覚えた。
 抱かれた感じがいつもと違う。それに、
(あたし、法師さまに袈裟を掛けてもらってたよね……?)
 彼女を抱く法師は袈裟をまとっている。
「……っ!」
 珊瑚ははっとして己を抱く男の顔を見上げた。
 弥勒より少し精悍な印象の、同じ年頃の若い男。
 弥勒のように法衣をまとい、弥勒より少し長めの髪を、同じように首の後ろで結わえている。
「きゃああっ!」
 珊瑚の悲鳴を聞いて、台所で朝餉の支度をしていた弥勒が慌てて居間へ飛び込んできた。彼は緇衣だけをまとっている。
「珊瑚!」
「法師さまー!」
 弥勒はあっという間に珊瑚の身体を奪い取って、険しい顔で客人を睨んだ。
「集真!」
 それがもう一人の法師の名だ。
 一時、夢心の寺に身を寄せたことがあるという弥勒の弟弟子。
「ったく、ちょっと目を離すとこれだ。珊瑚に手を出すなと言っただろうが!」
「けど、今、身を寄せてきたのは珊瑚のほうで……」
「あたしっ、法師さまって呼んだ」
 泣きそうになって珊瑚は弁解したが、
「おれもよく法師さまって呼ばれるから」
 と、集真は平然としたものだ。
「だいたい、なんで馴れ馴れしく珊瑚なんて呼ぶんだ! 夕べまでは“妻女どの”だったはずだろう」
「妻女どのなんて呼び方、水くさくねえか?」
「おまえはそれくらいでちょうどいい!」
 弥勒以外の男に抱きついたことでショックを受けている珊瑚をなだめながら、弥勒は仇を見るように集真を睨む。
 兄弟子の解りやすい態度に集真は苦笑した。

 朝餉を振る舞われ、すぐに客人は弥勒の家を辞去することにした。
「ごめんなさい、集真さま。あたしが法師さまと集真さまを間違えたりしたから」
「構わねえよ。どうせすぐ帰るつもりだったから」
 弥勒と珊瑚は玄関で集真を見送る。
「それより、珊瑚……いや、妻女どの」
 彼はじっと彼女を見つめた。
「なに?」
「あんたと話ができて、楽しかった」
「あたしも。昔の法師さまの話をいろいろ聞かせてもらえて嬉しかった。ありがとう、また来てくださいね」
 集真は微笑した。
 はからずもこの佳人の香りに触れてしまって、この先しばらく、他の女に酔うことはできないだろうと思った。
(相手が弥勒じゃ、奪うわけにもいかねえしな)
「集真。そのうち、夢心さまの寺で会おう」
「ああ、そのうちな」
 気まぐれに訪れた法師は、また気まぐれに去っていった。
「いい人だね」
「そう思うか?」
「少し、法師さまにも雰囲気が似てた」
 また三人で呑みたいね、と無邪気に夫を顧みる珊瑚に対し、弥勒はやれやれとため息をついた。
「あいつはいい奴だが、昨日も言ったように女癖が悪い。それに、妙に艶っぽい目つきでおまえを見ていたしな」
「考えすぎだよ」
「だから夕べは全く酔えなかった」
 集真が珊瑚にちょっかいをかけやしないかと気になって、彼女を守るために一晩中神経をすり減らしていたのだ。
「もっとあたしを信用してよ」
「……あいつと私を間違えたくせに」
 それを言われると耳が痛い。
「どうしたら、許してくれる?」
「今宵は私一人に酌をしてください」
 甘くささやき、愛しい妻の肩を抱き寄せると、彼女は花のように微笑んだ。
 ──この花の笑みをあいつも見たのか。
 にわかに不安に駆られた弥勒は、珊瑚の肩を抱いたまま、そそくさと玄関の中に入り、ぴしゃりと戸を閉めた。
 彼女を独り占めにするために。

〔了〕

2012.1.4.

梅の花 立ちよるばかりありしより 人のとがむる香にぞしみぬる