甘い野望

 珊瑚には密かな野望があった。
(よしっ。今日こそするんだ)
 先ほど現代から戻ってきたかごめの差し入れの缶コーヒーと缶紅茶を持って、企てを決行すべく、彼女は法師の姿を探した。
 彼はすぐに見つかった。
「法師さま、これ、かごめちゃんから」
 珊瑚は手にした二つの缶のうち、「無糖」の字が書いてあるほうを弥勒に差し出す。
 彼のは無糖コーヒーで、彼女のは甘いミルクティーだった。
「ありがとうございます。かごめさまが戻られたのなら、私たちも戻りましょうか」
「あの……少し散歩してもいい? これ飲みながら」
「いいですよ?」
 こんなふうに珊瑚から誘うことは稀なので、弥勒はやや嬉しそうに口許を笑ませた。
 並んでゆっくり歩きながら、珊瑚は横目で弥勒の様子を窺う。
 悠然としているが、隙がない。
 おまけに彼は、彼女より頭ひとつ分、背が高いのだ。
(でも、何か手があるはずだ)
 珊瑚は甘い紅茶をひと口飲んだ。
 こんなに甘く、幸せな気分になる飲み物はこの時代にはない。
 勇気を分けてもらうように、彼女は紅茶をもうひと口飲んだ。
「美味しい」
 まろやかな味にふと気が緩み、小さな微笑が洩れた。
「どうせ差し入れてもらうなら、法師さまも甘いのを頼めばよかったのに」
「以前、味見させてもらったことがありますが、あの甘ったるさはどうも苦手です。こちらのほうが独特の苦みがあって美味しいですよ。味見してみます?」
 差し出された缶の飲み口を見て、珊瑚はどぎまぎと眼を逸らせた。
「……いい」
 弥勒はくすりと可笑しそうに笑う。
 二人とも間接キスを意識したわけだが、珊瑚ははっとして己を鼓舞した。
(こんなことで恥ずかしがってたら、とても目的を達することなんてできないじゃないか)
 珊瑚の野望、それは弥勒への不意打ちの接吻。
 いつも弥勒がしてくれるように、彼を驚かせるような接吻がしたいのだ。
 それなのに……
 ゆったりと歩を進める弥勒を追いかけて、後ろからこっそり背伸びするも届かず失敗し、また追いかけて背伸びをしようとして、断念する。
 そんなことをくり返して隙を窺うが、長身の弥勒を相手にどうすることもできなかった。
 珊瑚が狙っている場所は、額とか、こめかみとか、髪とか、まず届かないだろう場所なのだ。
 浮かない顔で紅茶に口をつける娘をちらと振り返って、弥勒は微笑んだ。
「珊瑚」
「なに?」
 顔を上げた途端、目の前に影がかかり、やわらかなものが額に触れた。
「……!」
 呆然と眼を見開き、額を押さえる珊瑚に、弥勒は悪戯っぽい眼差しを向けた。
「額では不満ですか?」
「そ、そんなこと」
 額に口づけられるのは好きだ。幸せな気持ちになる。
 法師は紅茶を指差して、なおもからかうように言った。
「それ、甘くて苦手なので」
 最初、珊瑚は弥勒が何を言っているのか解らなかったが、やがて、はっとして、恥ずかしそうに口許を押さえた。
「でも、珊瑚からしてくれるなら、少々の甘さは我慢しますよ」
「あ、あたしからって……どういう意味さ?」
 法師はくすりと短く笑う。
 彼はどこまで知っているのだろう。
 頬がどんどん熱くなり、珊瑚は息をつめて彼を見上げた。
 弥勒は手に持っていた缶を珊瑚の缶にかつんと合わせた。
「いいことを教えてあげましょうか」
 そして、少し身をかがめ、真面目くさって娘の耳元に口を寄せる。
──座っているときを狙えばいいんですよ」
 ね? と弥勒は、呆気にとられている珊瑚に向かって、軽く口角を上げてみせた。

〔了〕

2011.7.31.