あくがれる君

 もとは、身分ある人の別荘だったのだろう。
 その日の夕方、山の中で犬夜叉たちの一行が一晩を過ごすことにした山荘は、大きくて、しっかりとした造りで、だが、もう何十年も捨ておかれたような廃墟だった。
 戦闘が続き、疲れていた一行は、傷みの少ない母屋で早めに休むことにした。
 簡単な夕餉のあと、ひとつの部屋に固まって、思い思いの体勢で眠りに身を委ねる。

 少し微睡み、ふと目を覚ました珊瑚は、同じ部屋にいたはずの弥勒の姿が消えていることに気がついた。
(どこへ……法師さまも疲れているはずなのに)
 こんな山の中で、若い女がいるはずもない。
 何となく不安になり、仲間たちを起こさないように起き上がって、珊瑚はひっそりと部屋を出た。

 寺を改装したと思われる風情ある建物の中を、法師を捜し、影のように彷徨う。
 朧な月明かりのもと、濡れ縁に出た珊瑚が、あちこちに目をやりながら歩いていると、前方に、密やかに座り込む法衣姿を見つけた。
「法師さま……」
 ほっとして、彼に近づく。
 濡れ縁に座る弥勒は、欄干越しに外の景色を眺めていたが、すぐに愛しい娘の気配に気づき、彼女を見て、微かに笑んだ。
「珊瑚」
「眠れないの? 休めるときに休んでおかなきゃ駄目だよ」
 そのとき、珊瑚は月明かりとは異なる淡い光が、外で群れていることに気づいた。
 蛍だ。
 ちょうど弥勒の座する正面に滝石組が組まれ、自然の川の流れを利用した人工の滝を観賞できるようになっている。
 水が落ちたところはせせらぎとなり、ぼうっと光を放つ無数の蛍が集まっていた。
「……きれい」
 ささやきのように洩れた娘の声音に、弥勒は自身も視線を蛍の群れへと向けた。
「蛍の光は、愛しい人を恋うるあまり、身体から抜け出た魂だそうですよ」
 静かな低い声だった。
 珊瑚が立ったまま彼を見遣ると、法師も物憂げに珊瑚を見返した。
「あれは、おまえを想う私の心かもしれんな」
 狂おしいばかりに身を焦がしている証し。
 珊瑚は仄かに頬を染め、そっと眼を伏せた。
「珊瑚こそ、眠れんのか?」
「法師さまがいないから。心配で」
「私はしばらくここにいます。珊瑚は戻って休みなさい」
「でも」
 彼女が躊躇うと、座ったまま、弥勒は彼女のほうへ片手を差し出した。
「では、一緒に蛍を観ますか?」
「……」
「こちらへおいでなさい」
 珊瑚は差し伸べられた手を見遣る。
 そして、息をひそめて、胸をときめかせ、弥勒に近づいた。
 二人きりで静かな刻を過ごすなど、久しぶりだ。
 差し伸べられた手に己の手を伸ばし、法師の隣に腰を下ろそうとしたそのとき、手を掴まれ、引かれ、彼女は弥勒の腕の中へ倒れ込んだ。
「……っ!」
 抱きすくめられる。
「ちょっと、法師さま……!」
「あくがれるほどに焦がれていると言ったでしょう?」
 娘を抱き込んだ弥勒が、夜の闇のような声で言った。
「おまえは?」
「……」
「おまえは、誰を恋うている?」
「……知ってるだろ?」
 珊瑚は自らの鼓動を意識し、法師の腕の中で身を固くした。
 せせらぎの上の光の乱舞。
 尾を引くように流れる小さな光の群れが、小さな宇宙を形作っている。
 しばらく二人は抱き合うように寄り添って、無言でその光景を眺めていた。

 愛しい人にいだかれ、魅せられたように、珊瑚が蛍火を見つめていると、やがて法師は抱き寄せている娘の髪を撫で、頬を撫で、彼女の頤からうなじへと指を滑らせた。
 手を小袖の衿元に差し入れて、焦らすように首の後ろをくすぐる。
「あっ……」
 思わず眉根を寄せた珊瑚の口から、甘い声が洩れた。
 彼女の耳に唇を寄せた弥勒がけだるげにささやく。
「いつからそんな色っぽい声を出すようになったんですか」
「……法師さまのせいじゃないか」
 いつから、と問われ、初めて彼に身を任せたときのことが思い出され、羞恥に頬を染めた珊瑚は法師の胸に顔をうずめた。
 法師は衿の中に差し入れた手で、彼女のうなじから肩までをまさぐり、小袖の衿をくつろげる。
「あ──
 男の熱い吐息が、いきなり珊瑚の耳朶にかかった。
 鏡のように静かなたたずまいとは裏腹な彼の熱が、たちまち珊瑚に伝染し、彼女を狼狽させた。
 心臓が早鐘を打つ。
「待って」
「欲しい。今すぐ」
「待って、こんなところで」
 弥勒の唇が、抱きすくめた娘の喉元に押しつけられた。
「んっ……」
「部屋へ戻ることもできたのに、おまえはそうしなかった」
「誰か来たら、どうする気?」
「私と珊瑚の姿がそろって消えていれば、二人きりになりたいのだろうと、皆、察してくれますよ」
 それ以上は言わせず、弥勒は慣れた仕草で、己の唇を珊瑚の唇に重ね合わせた。
 すぐに濡れた感触が珊瑚の唇を割って入ってきた。
「んう……」
 強引な求め方に珊瑚は呻く。
 それでも、求められるのは嬉しい。
 法師が自分に心を開いてくれているように感じるし、女としての自信を与えられる。
 珊瑚は夢中で袈裟を握り、口づけに応え、彼にすがった。

 弥勒に全てを捧げることを、珊瑚は辞さない。
 肌も生命も、何もかも。
 大切なもののためなら、彼女は自分が傷つくことも顧みず、いつでもまっすぐに突き進んでいく。ときに、それが無謀な行いであっても。
 そんな珊瑚の一途さに歯止めをかけることを、常に弥勒は意識してきた。
 年長の者として。
 彼女を愛する男として。
 必要以上に互いの感情が暴走してしまわないよう、ある程度の抑制をかけていたのだ。
 その自制が、今宵の彼にはない。
 矢も盾もたまらず、箍が外れたように珊瑚を求めている。

 弥勒の荒々しい口づけを従順に懸命に受けていた珊瑚は、何かしらの違和感を覚え、出し抜けに彼の身体を押しのけた。
 唇を離し、息を弾ませながら、彼女は法師にささやいた。
「なんか変だよ」
「何が?」
「法師さまらしくない」
 彼がわずかに怯んだと見た珊瑚は、弥勒の右腕に手を掛けた。
「もしかして、右手が痛むの?」
 法師は珊瑚から眼を逸らさなかった。
 しかし、その眼差しの意味は読み取れない。
「昼間、風穴で雑魚妖怪の群れを吸ったよね。毒を持つ妖怪がいたの?」
「……」
「そうなんだね」
「……痛み止めと、毒を中和する薬草を使いました。そろそろ効いてくる頃です」
 珊瑚は大きくはだけた衿を直して、立ち上がった。
「どこへ行く?」
「痛み止めは残り少なかったはずだ。あたしたちに気兼ねして使わなかったんじゃないの? 今すぐ持ってくる」
「待て、珊瑚」
 素早く立ち上がった弥勒は、部屋へ戻りかけた彼女を、後ろから力任せに抱きしめた。
「確かに、痛み止めは使っていないが、必要な処置は自分でした。小言はあとでいくらでも聞きます。だから今は……」
 弥勒は無理やり珊瑚をこちらへ向かせ、その唇に有無を言わせず口づけた。
「っ!」
 珊瑚の内に眠る全てを引き出そうとするように、執拗に唇を吸い、舌を絡ませ、長い、したたかな口づけにふける。
 ようやく解放されたとき、珊瑚は悩ましげに小さく喘いだ。
「……乱暴にしないで」
「これでも充分、加減していますよ」
 己を見上げる潤んだ瞳を見返し、弥勒は微かに息を洩らした。
「不安だから、おまえといたい。おまえをじかに感じていたいから、肌を合わせたくなるんです」
 そうささやいた弥勒の両手の指が、珊瑚の頬をそっと包み、額髪をもてあそぶ。黒い瞳が彼女の瞳をひたと覗き込み、その匂い立つ色香に、珊瑚は眩暈がしそうだった。
「そんな言い方、ずるい」
「おまえが欲しい」
 唇が重なった。
 朧な月光と蛍明に照らされる濡れ縁で、息詰まるように密やかな口づけを交わしながら、弥勒は自らの袈裟を解いた。

 せせらぎの水の音が幻のようにわだかまっている。
 吹きさらしの濡れ縁で、彼女の美しい髪が汚れてしまわないように、弥勒は袈裟の上へと珊瑚を押し倒した。
 手早く褶を取り払い、自らの帯と下帯を解き、娘の小袖の衿を大きく押し広げた。
 覗いた乳房に舌を這わせ、小袖の裾を割って忍ばせた手で、すんなりと伸びた足の膝の辺りから上へ上へと撫で上げる。
「あっ……」
 彼の指が彼女の足のあわいを探り出し、珊瑚は大きくのけぞった。
「祝言こそあげていないが、おまえとの交わりは恋仲のそれではなく、夫婦の契りだと思っている」
「ほう、し……さま」
「夫婦は二世の契りという。ならば、珊瑚。来世、生まれ変わっても、再び夫婦になって私とともに生きてくれるか?」
 快楽に揺らめいていた珊瑚の意識が、不吉な現実に引き戻される。
「どうして、そんなことを言うの?」
 潤沢な瞳で、彼女はささやいた。
「生まれ変わっても、もちろん、法師さまと夫婦になりたいよ。でも、今は来世のことより、目の前の闘いのことを考えるべきだろう?」
「深い意味はない。それほど珊瑚を愛しく思っているということです」
 弥勒はふくらみの先端を吸い、艶めかしく舌を絡ませた。
 たちまち、珊瑚が身悶え、あえかな声を上げる。

 ──風穴に呑まれたら、己の魂はどこへ飛ばされるのだろう。来世か。無、か?
 たとえ、風穴が限界を迎えても、もし、愛しい娘と来世で添い遂げられるなら──

 そんな弥勒の惑いが伝わったのか、珊瑚は、いつもより荒々しい愛撫に耐えながら、苦しげに言葉を紡いだ。
「嫌だ。もし、法師さまが弱気になっているなら、祝言をあげるまで、あたしは夫婦だなんて思わない」
「何があっても、おまえを愛している」
 弥勒は乱暴に珊瑚の華奢な躰を組み敷いた。
「いやっ、生き抜いてよ。でなければ、来世の約束なんてしない──っ」
 彼女の中へ、彼は自身を突き入れる。
 そして、貪欲に貪り始めた。
 いつもはやさしい弥勒の、いっそ狂おしいほどの激しさに、珊瑚は惑乱と快楽の入り乱れた渦の中に放り込まれたような心地でいた。
 揺さぶられ、乱れ、気が遠くなる。
 めくるめく波の間に揺蕩うような交わりの果てに、珊瑚は気を失ったようだ。

 横たわったまま、珊瑚が目を開けると、小さな光がいくつも漂う光景が見えた。
「……法師さま」
「ここにいますよ」
 白小袖だけをまとう弥勒は、すぐに身をかがめて、横たわる珊瑚に覆いかぶさり、彼女の髪に唇を当てた。
「乱暴にして、悪かった」
「……ううん」
 力なく珊瑚は首を振る。
 快楽に翻弄されてしまう前に、彼の痛みを分かち合いたかった。こんなに焦がれているのに、何もできないのがつらい。
「ねえ、法師さま」
「うん?」
「焦がれた相手がそばにいてくれなければ、抜け出た魂は戻ってこられないよ」
 自分はいつだって法師さまにあくがれている。
 そんな想いを込めて、珊瑚はそっと伝えた。
「それは困るな」
 弥勒は物憂げに彼女の頬に触れ、額髪をなぶる。
「一番大切な魂は、私のこの手で守りたい」
「うん。あたしも精一杯、法師さまを守るから」
 けだるそうに持ち上げられた珊瑚の手が、控えめに法師の右手に触れた。
 珊瑚の白い胸元に口づけの跡が散らばっているのを見て、弥勒の胸が愛しさに疼く。
 彼は汗ばむ彼女の髪をかきあげた。
「身体を洗いたいでしょう。そこの沢、山の水ですから、綺麗ですよ」
 そうして、娘の帯を解き、肌小袖も脱がせて一糸まとわぬ姿にし、その瑞々しい肢体を彼はいきなり横抱きに抱き上げた。脱力している珊瑚はまだ身体にうまく力が入らないようだ。
「何するの、法師さま」
「大丈夫。二人だけです」
 自身は白小袖姿で、裸形の珊瑚を抱きかかえ、法師は光が集うせせらぎへと向かった。
「ちょっと、肌小袖だけでも返してよ」
「おまえの肌に蛍の明かりが映えるでしょう」
 同じあくがるにしても、来世で夫婦になることを夢見るより、ここにいる愛しい娘の美しい裸体に憧れるほうが遥かに健全ではないかと、弥勒は自嘲気味に口許を笑ませた。
 揺れ惑う彼の魂を、珊瑚が引き戻してくれたのだ。
 珊瑚との行為に身を委ねている間に、右手の痛みも和らいでいた。

 裸の珊瑚を横抱きにしたまま、弥勒は裸足で庭に下り、沢に立つ。
 そこで彼女を降ろしてやり、手拭いを水に浸し、彼女の肌を肩から清めていった。
 火照った躰を冷たい水が冷やしてくれる。
 珊瑚は恥ずかしげに両手で身体を隠そうとしていたが、抗う気配はなく、弥勒の為すままになっていた。
 月が傾いていく。
 森閑とした夜の闇に涼しげな滝の音がこだまする。
 淡い光に照らされて、いつしか、二つの影は固く抱き合い、互いの唇を無心に求めた。
 沢に遊ぶ蛍の群れが、抱き合う二人の姿に幻のような陰影を刻み、浮世離れしたその光景は、どこか神秘的で美しかった。

〔了〕

2014.7.24.

もの思へば さはの螢もわが身より あくがれ出づる魂かとぞ見る
(和泉式部)