見上げると、そこにはまるい月があった。
月が己を見ている。
己が月を見ている。
香を放つほどに白い、白い月の光が、夜の大気を満たしていた。
月下香
湯煙が辺りに漂っている。
仲間たちが眠る深夜、弥勒は一人で山の中の温泉につかっていた。
月光が香を放つと感じるほどに、世界は仄白く澄み渡っている。
雲ひとつない夜空には、満月が煌々と輝いていた。
白い湯煙に白い月光。
湯に浸していた右腕を上げ、弥勒は数珠と手甲に守られた右手に視線を落とした。
風穴の呪い──
右手に穿たれたそれが、常よりもさらに弥勒の心を重くした。
(珊瑚……)
この手で愛しい娘に触れてしまった。
ぱしゃん、と、湯が跳ね、湯につけた両手で顔を拭う。
禁断の一線を越えた。
珊瑚自身が許したとはいえ、何故、手を伸ばしてしまったのかと思う。
珊瑚が望んだからと、それを理由にしたくはなかった。
以来、仲間たちとは普通に接しているが、珊瑚に対しては、妙に身構えてしまうのだ。
月影が揺れた。
ふと、気配を感じて振り向くと、仄白くたたずむ人影があった。
刹那、白い天女のように見えた。
まるで、月の光が地に降りて人の形を成したように、その人影は幻のように霞んでいた。
「法師さま」
「珊瑚……」
娘は小袖姿ではない。
白い湯帷子をまとっている。
「……あたしも一緒に入っていい?」
低い声で問う彼女の言葉に、息を呑んで、弥勒は躊躇した。
彼女の裸足の足が草を踏み、温泉に近づく。
ゆっくりと身をかがめて湯に足を入れる彼女が、ふと言った。
「あたしを避けてるだろう?」
弥勒は言葉につまる。
「……あたしとのこと、後悔してるの?」
「そうでは──」
ない、とは言い切れなかった。
事実、彼は彼女を避けていた。
薄い湯帷子一枚だけをまとった珊瑚が、静かに湯に身を浸し、うつむき、弥勒のそばにとどまった。湯の中、彼のほうは何もまとっていない。
「珊瑚、この状況はまずい」
「だって、こうでもしないと、法師さま、あたしとまともに話してくれないじゃないか」
白い月光と白い湯気の向こうに彼女の憂いを帯びた顔がある。
弥勒は彼女から眼を逸らし、つぶやくように言った。
「謝るのは卑怯だと思う。だから、謝りはしない。ただ、こうなってしまったことをどう考えればいいのか判らない」
「やっぱり、後悔してるんだね」
消え入りそうな珊瑚の声。
湯の中でそっと彼女の手が伸ばされ、彼の腕に触れた。
弥勒は身を固くする。
「やめなさい、珊瑚。こんな男に身を任せるなど、破滅だぞ」
「それは法師さまが決めることなの?」
細い指が彼の腕に添えられる。
逃げようと思えば逃げられたが、彼はそこから動くことができないでいた。
「それに、もう遅いよ。あたしは法師さまと一緒なら、破滅してもいい」
彼女の声はどこか悲しげであり、仄かな甘みを帯びていた。
「それとも、一度抱いたら、もう飽きた?」
「!」
珊瑚にそのようなことを言わせるなど──
たまらなくなって、弥勒はすぐそばにあった珊瑚の肢体をかき抱いた。
「法、師さまっ……」
「おまえはどうしてほしいんだ? こうやって抱かれたら満足か? おまえがそばにいるだけで、私はこれほど苦しいというのに……!」
いつでも珊瑚に触れていたい。
だが、触れたら欲しくなる。
自分のものにしたら、もっともっと欲しくなる。
情欲に溺れてはいけないと思うほど、珊瑚への恋情は弥勒を苦しめた。感情と理性が乖離してしまうのが怖い。
何故、その肌に触れてしまったのだと己を責める。
「おまえは甘い香りがする」
湯の中で抱きしめた珊瑚の髪に顔をうずめ、弥勒はその髪に、珊瑚のこめかみに、唇を押し当てた。
「この香りを知って、こんなに苦しいなら、知らないまま苦しむほうがよかった」
「法師さま」
すがるように彼女を抱きしめる法師の背に、珊瑚もまた両手を廻し、抱きしめ返す。
逞しい腕に包まれる彼女は切なげにほうっと吐息を洩らした。
「法師さまを苦しませたいんじゃない。ただ、今までどおり、二人で過ごしたり、話をしたり、そういう時間が少しほしいだけ──」
抱いている娘の肩から腕に掌を滑らすと、彼女がまとっている湯帷子が濡れそぼり、白い肌が透けているのが判った。
娘の鼓動が速い。
己の鼓動もまた速いことに、ひどく惑乱する。
何も考えることができなくなり、気がつくと、弥勒は、彼女の小さな唇に己の唇を重ねていた。
渇きを癒すように唇を吸い、舌を吸う。
長い口づけの末、珊瑚が苦しげに喘いだ。
「法師さまが触れてくれたのは、あたしには特別なことだから。だから苦しまないで。あたしのこと、法師さまがまだ想ってくれているのか、それが知りたいだけだから」
「……愛している」
うわ言のように弥勒がつぶやく。
腕の中で珊瑚が大きく息を呑むのが解った。
「だが、こんなふうにおまえを求めずにはいられない自分の弱さが浅ましい」
「いいんだ、法師さま。嬉しい。弱いとか、そういうことじゃないよ」
また、珊瑚のやさしさに甘えてしまうのか。
けれど、かぐわしい彼女の肌に抗う術など弥勒にはない。
湯の中で揺らぐ珊瑚の湯帷子の帯を捉え、手探りでそれを解いた。
肌に張り付いた布を彼女の肩から下ろし、月の光に浮かぶ濡れた白い肌を目に焼き付けるように見つめた。
頬を染めた彼女が斜め下に顔を逸らす。
弥勒は珊瑚の細い腰をぐいと引き寄せて、その首筋に舌を這わせた。
──甘い。
「あ……」
ふくらみを揉まれて珊瑚がのけぞり、ぱしゃっと湯が跳ね、湯面に波紋が広がった。
花弁に弥勒が触れると、珊瑚のその部分は、湯よりもさらに熱く、潤んでいた。
「ほ、しさま……」
「嫌なら、言ってくれ」
向かい合ったまま、弥勒は己の腰の上に珊瑚を跨らせる。
熱いのは温泉につかっているせいか、二人の体温なのか、それらはひとつに交じり合った。
珊瑚は震える両腕を彼の首に絡め、彼を強く抱きしめた。
弥勒は慎重に探り、穿つ。
「んっ──あ、はあっ」
すると、彼女の感じる部分を突いたらしく、抱きしめている珊瑚の細い躰がしなり、その唇からは甘い声が大きくこぼれた。
愛しい娘の声、表情。やわらかな肢体と彼にしがみつく指先。絡み合う熱。
それら全てが弥勒の欲望をいやが上にも煽っていく。
「珊、瑚──!」
名を呼び、繋がったまま、夢中で珊瑚を抱き上げて、彼は彼女を温泉の畔の地面に仰向けに寝かせた。
頬を上気させる珊瑚は常とは別人のように艶めかしく、潤んだ瞳がひたと弥勒を見つめていた。
「珊瑚……」
「法師さま」
激情のままに、弥勒は珊瑚を揺さぶった。
彼女の表情は苦痛に揺れたが、彼にはそれを気遣うゆとりはなかった。
ただ、愛しいものをひたすら求めた。
* * *
──そばにいてほしい。
それは己のわがままだと思っていた。
風穴の呪いゆえに珊瑚を手放し、彼女が幸せになることを遠くから願わなければならないと。
草の上に横たわり、荒い呼吸を整え、眼を閉じていると、まだ彼にすがりついている珊瑚が小さくつぶやく声が聞こえた。
「どこへも行かないで……」
娘がそっと身を起こす気配。
そして、唇に感じたやわらかな感触。
はっとして眼を開けると、月光に満ちた仄白い世界の中に最愛の娘の顔が見えた。
「珊瑚」
遠慮がちな口づけがたまらなく愛おしい。
弥勒は珊瑚を抱きしめ、そのまま身を起こした。
「大丈夫か?」
「うん」
「冷えるといけない。もう少しだけ、湯につかってから戻ろう」
「……うん」
土や草に汚れてしまった湯帷子を脱ぎ捨てて、裸形になって珊瑚は湯の中に身を縮めた。
一緒に湯につかる弥勒が、珊瑚を後ろから全身で包み込むようにした。
「恥ずかしいよ、法師さま」
「何を言っている。おまえから私のところに来たくせに」
呪いがあっても、一人で耐えられないはずはないと思っていた。
けれど、珊瑚を知ってしまった今、もう、独りになるのは嫌だ。
愛しい娘をしっかり抱きしめ、彼女の頬に自らの頬をよせる。
あたたかい──
視界を仄白い月の香が満たしていた。
「法師さま」
はにかむように彼を顧みた娘と、深く、静かに弥勒は唇を重ね合わせた。
他の誰でもない、珊瑚を愛しく思う。
珊瑚に出逢ったこと、そのことこそに特別な意味があるのだと思いたい。
〔了〕
2020.3.6.