波紋を呼ぶ人
水音が聞こえた気がした。
うだるような夏の外気をさけて、自宅に戻ってきた弥勒は、しんとした家屋の中、無意識に妻の姿を捜した。
「珊……」
名を呼ぼうとしたとき、再び台所のほうで水音が聞こえた。
そちらへ足を向け、そっと台所の土間を覗くと、妻の珊瑚がほっそりとした上半身を露に、緋のもの一枚という無防備な姿で、その場に膝をついて身体を拭っているところだった。
(!)
弥勒は息を呑む。
よく知る妻の肢体なのに、初々しく息づく肌がまぶしすぎて……
傍らに置いた盥の水に珊瑚が手拭いを浸すと、ぱしゃん、と澄んだ音がして、水面に波紋が生じた。
彼女は手拭いを軽く絞り、肩から腕をしなやかに拭う。
珊瑚は弥勒が知る中で、最も美しい女人だった。
その美しいひとがゆっくりと身を清めていく姿に惹きつけられ、思わず目が釘付けとなった。
不意に珊瑚が元結いをほどいて、両手で髪を束ね直し、首の後ろでひとつに結んだので、ちらちらとしか見えなかった胸のふくらみが露になった。
その艶めかしさに弥勒ははっとした。
我知らず足が前へ進む。
刹那、空気が動き、それに気づいた珊瑚がそちらに眼をやって、悲鳴を上げた。
「ほっ、法師さま! きゃあっ!」
とっさに土間にしゃがみこんだ彼女は、自分で自分を抱きしめるようにして、両腕で胸乳を隠してうずくまる。
「ちょっ、珊瑚、きゃあって……ここは私の家で、おまえは私の妻ですよ?」
弥勒は慌ててとりなそうとしたが、
「どう見たって覗きじゃないか。法師さまのスケベ!」
真っ赤な顔で言い返されてしまった。
「いや、覗きって……不可抗力でしょう。こんなところで行水しているなんて知りませんでしたよ」
「だって」
消え入りそうな声で、珊瑚はつぶやく。
「今日は暑くて、汗をかいたから」
「ああ、私もだ」
「ほ、法師さまが帰ってくる前に、身体を拭おうと思って」
珊瑚はうずくまったまま、ちらりと法師を睨んだ。
「……なんでこんなに早く帰ってくるのさ」
責めるような口調の彼女に苦笑し、弥勒は可笑しげにふっと表情を和らげた。
「別に見られたっていいじゃないですか。夫婦なのだし。お詫びに、私が身体を洗うのを手伝ってあげましょう」
「何を言い出すの!」
とんでもないというふうに眼を大きく見張って珊瑚は首を横に振ったが、彼は意に介さず袈裟を解き、緇衣だけの姿になった。
「さあ、恥ずかしがらずに。髪を前へやってください」
どう断ろうと法師の行為を断念させるのは難しいと感じた珊瑚は、腹を決めて、根元で結わえた髪を肩から前へ垂らした。
両手で胸を覆い、その場に膝をつく珊瑚の白い肩から背中が弥勒のほうへと向けられた。
ふっと胸が疼く。
きめ細やかなその肌に思わず見惚れた。
見つめていると心乱されそうだ。
己を叱咤し、手桶を取って、盥からすくった水を、彼は彼女の肩にゆっくりとかけていった。
珊瑚の肌を伝っていく水滴に、何故、こうも心をかき乱されるのだろう。
もう片方の肩にも水をかけ、手拭いを手に取り、丁寧に肌を拭うが、胸がざわついて眩暈がしそうだった。
(暑さのせいだ)
そんな言いわけをしてみるも、どうしようもなく欲望をかきたてられて、気づいたら手拭いを盥の中へ投げていた。
弥勒の指先が珊瑚の肌を滑る。
「法師さま?」
戸惑ったような珊瑚の声が聞こえたが、彼の意識には届かず、彼は目の前の背中に口づけた。
「あっ……」
そこには傷痕がある。
「何……何してるの、法師さま」
両方の二の腕を掴まれ、固定された珊瑚の背中を弥勒の唇が這った。官能を誘うように。
「や、そんなふうにしないで」
「どうして?」
唇はなおも焦らすように珊瑚の傷痕をゆっくりとなぞった。
「いやっ」
身をよじろうとしても彼に腕を掴まれ、動きを封じられている。
唇で傷痕を撫していた弥勒は、愛しむようにそこに接吻した。
「この傷はもう私のものか?」
「え?」
奈落に操られた琥珀がつけた傷。それは闘いのさなかで、故郷を破壊され、弟を奪われた珊瑚の痛みを象徴するものだった。
里の仲間たちの仇を討ち、琥珀を取り戻した今、珊瑚の苦しみは過去のものになっただろうか。
「あたしの全ては、もうとっくに法師さまのものだよ」
はにかみながら珊瑚は答える。
その答えに満足感を覚えた弥勒の唇が、珊瑚の肩にちゅっと触れ、珊瑚の二の腕を掴んでいた彼の手が、少しずつ下へ降りて柳腰を捉えた。
緋色の湯巻の結び目を探る彼の指を感じ、珊瑚は上擦った声で叫んだ。
「法師さま……! 今は昼で、ここは台所だ」
「だが、私はおまえが欲しい」
彼の手から逃げるように立ち上がろうとした珊瑚に合わせ、法師も一緒に立ち上がり、後ろから細い腰を抱き寄せた。
「おまえも私を欲している。……違うか?」
身を強張らせる彼女をこちらに向かせ、胸元を隠している両の手首を掴む。その手を左右に広げると、隠されていた乳房が露になった。
「見ないで……」
羞恥に駆られ、けれど、束縛から逃れることもできずに、珊瑚は眼を伏せて彼から顔を背けた。
「何故? こんなに美しいのに」
捕らえている腕を引き寄せ、彼女の胸元に顔を埋めた弥勒が、片方の胸の頂に口づけ、軽く舌を這わせた。
「んんっ」
そして、震えるように身じろぐ珊瑚を抱きしめて、有無を言わせず唇を奪った。
「んっ……」
甘やかな唇を存分に味わいながら、片方の手で珊瑚の背を抱き、もう片方の手で自分の帯をほどいて、邪魔な衣を脱ぎ捨てる。
次いで珊瑚の湯巻の結び目を解いて、珊瑚の下半身から湯巻を取り払い、彼女を一糸まとわぬ姿にさせた。
「法師、さま──」
己の裸身を見られまいと、珊瑚は自分から法師に抱きついて口づけを求めた。
珊瑚を抱きしめ、弥勒は逆らわずに唇を重ねる。
ゆっくりと求め合い、それと同時に、彼は彼女の背に廻した掌をそっと滑らせた。
掌に吸いつくような感触を堪能し、なめらかな肌を撫でさする手が、背中の傷痕をなぞり、下へ、下へと降りていった。
反射的に身を離そうとした珊瑚を強く抱き、片手で腰をまさぐって、さらにその下の臀部へと掌を進める。
身を震わせた珊瑚がすがるように弥勒を抱きしめたので、彼はやわらかな肌を楽しみながら、激しく舌を彼女の舌に絡めた。
長い口づけを終え、ふっと唇を離し、弥勒は珊瑚の耳にささやく。
「そこの棚に手をついて。こちらに背を向けて」
言われるままに棚に手をかける珊瑚の背後に歩み寄り、弥勒は彼女の腰を両手で掴んだ。
「……法師さま」
かすれた声で珊瑚がささやく。
身を寄せ、彼女の濡れた場所に己自身をあてがうと、消え入りそうな声で珊瑚が言った。
「激しくしないで」
「おまえが乱れるところが見たい。汗をかいたら、もう一度私が流してあげますから」
珊瑚をなだめるように背後から乳房を揉みしだき、彼女の力がふっと緩んだところで一気に腰を進めた。
「法、師さま……っ」
泣き声のような珊瑚の声が、途方もなく甘美に響く。
もっと声が聞きたい。もっと感じさせたい。
彼女に羞恥を思い出す暇を与えないよう、弥勒は激しく突き上げた。
やがて、二人で昇りつめたあと、弥勒は脱力する珊瑚を抱きとめ、二人一緒に土間の横の板の間の上に身を投げ出して、荒い呼吸を整えた。
「はぁ……」
大きく息をつき、すがるように互いの裸身を抱きしめる。
「珊瑚、すごくよかった。乱れるおまえも可愛い」
かすれた声でささやくと、少し眦をきつくして、珊瑚は夫を軽く睨んだ。
「激しくしないでって言ったのに」
「承諾した覚えはありません」
「……あっ」
腰の辺りに指を這わされ、その感覚に驚いた珊瑚の肢体がぴくんと跳ねた。はっとした珊瑚は羞恥に頬を染めて彼を睨むが、艶めかしい眼差しを返されると、何も言えなくなる。
そんな彼女の様子こそ、艶めかしいと弥勒は思った。
珊瑚は彼の心に波紋を招く。
──愛しい。
──触れたい。
──抱きたい。
そういった感情が弥勒の心に幾重にも広がり、揺さぶりをかける。
(愛している、魅せられている──そんな言葉じゃ足りないな)
不意に身を起こし、珊瑚を仰向けに床の上に押し倒した弥勒は、まだ微かに荒い呼吸をくり返す妻の唇に唇を重ね、深く、深く、口づけた。
〔了〕
2011.8.21.