そもそも、今夜の宿に、この屋敷を選んだことが間違いだったのだ。
 弥勒は一同の前に並べられた豪華な夕餉の膳を見てため息をつき、彼の隣にしとやかに座る娘から酌を受けては、曖昧な笑みを浮かべた。
 くるくるとよく動く小鳥のように愛らしい娘で、それだけなら、むしろ大歓迎なのだが……
 弥勒は向かいに座る珊瑚に目を移す。
 黙々と箸を動かす珊瑚は、冷たい視線だけをこちらに向けていた。

花曇り

 山には、咲き初めの山桜が淡い色彩を添え始めていたが、あいにくの花曇り、雨にならないうちにと、犬夜叉たちの一行は、山の麓の村で一番大きな屋敷に宿を頼んだ。
(浮気などという気は、さらさらないのだが……)
 けれど、常が常なため、法師の隣に女がいるというだけで、こんな視線を向けられる。
 はあ、と、再びため息をついた弥勒に瓶子を持った侍女が声をかけた。
「法師さま、楽しんでいらっしゃいますか?」
「ええ、まあ」
「若旦那様に皆様のおもてなしを仰せつかりましたが、仏門に入られているお方に女が酌をするというのは、失礼に当たりませんでしょうか?」
「とんでもない。酒も、おまえのように美しいおなごからの酌も大好き──
 つい、いつもの調子で軽く応じてしまい、はっとして視線を上げると、正面から珊瑚が思いきりこちらを睨んでいた。
「まあ、嬉しい」
 侍女はまんざらでもない様子だ。
 かごめは酒を飲まないし、七宝や雲母は言わずもがな、珊瑚も妖怪退治を頼まれているので、酒を口にしなかった。
 始めのうちは、侍女は犬夜叉にも酌をしていたが、
「あんまり飲み過ぎないのよ」
 と、かごめに言われ、犬夜叉は酒よりご馳走のほうを楽しんでいる。
 よって、自然と侍女は弥勒の隣にはべることとなり、珊瑚の表情はますます険しい。

 かなりの物持ちらしいこの屋敷の主人は、病気で寝たきりだった。
 そのため、若旦那様と呼ばれている若い息子が一行をもてなしていたが、食事の間中、その息子は、ずっと珊瑚に意味ありげな視線を送っていた。
 法師の浮気を心配する珊瑚のほうは、もとより、それ以外のことは眼中にない。
 だが、夕餉を終え、一行が用意された部屋に案内されるとき、屋敷の息子が珊瑚を呼びとめた。
 それに気づいた弥勒が、珊瑚のもとへ向かおうとしたが、先程の侍女が弥勒のそばへと近寄ってきた。
「あの……法師さま、もし、よろしければ」
「何ですか?」
 鷹揚に微笑すると、侍女は頬を染めた。
「こんなことを言って、あの……はしたないとお思いかもしれませんが……もう少し、お酒を召し上がりませんか?」
「もう、充分にいただきました」
「つまり、その、二人きりで……」
「まさか、それも若旦那様のご指示ですか?」
「いいえ! あたしが、その、一夜の逢瀬でも、法師さまのおそばにいられればと」
 これが犬夜叉たちと出会う前なら、弥勒も気軽に応じただろうが、今は珊瑚という特別な娘がいる。
 珊瑚以外の娘に戯れることはあっても、それ以上のことをする気はないし、愛しい娘を裏切ることなど考えられない。
 絶妙のタイミングで、足許で雲母がみう、と鳴いた。
 いつの間にそこにいたのか、法師のお目付け役を命じられたのだろう。
 弥勒は小さくため息を洩らし、雲母を抱き上げた。
「すまんが、この猫を犬夜叉たちの部屋まで連れていってもらえるか?」
 雲母を渡された侍女は、戸惑ったように法師を見た。
「あの、法師さまは」
「私は珊瑚に用があります。あの娘がどこへ行ったか、教えてください」
「その先の渡り廊下の向こうの離れです。でも、若旦那様は、退治屋さまはお一人で妖怪退治をなさるので、他の方々は客間へご案内するようにとおっしゃっていました」
「妖怪退治を、今宵ですか?」
「そう聞いております」
「妖怪は夜間に出るのですか?」
「そのようです。屋敷に妖怪が出ることすら、あたしたち使用人は知りませんでしたが」
「……やはりな」
 今度ははっきりと、弥勒は大きなため息をついた。

* * *

 渡り廊下の先に灯りが見えた。
 手燭だ。
 今宵、夜空は雲に覆われ、月は見えない。
 夜陰の中、足早にその灯りに追いついた弥勒が、相手の顔が確認できる距離まで近づくと、手燭を持つ屋敷の若旦那は、ぎくりとしたように法師を見た。
 弥勒より少し年上に見える青年だ。
「法師さま。どこへ行かれます?」
「この先に用がありまして」
「この先は離れしかありませんよ」
「存じております」
 何食わぬ顔をしてすたすたと歩き出す弥勒を、狼狽した若旦那が追った。
 法師は、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで、お父上のご病気は妖怪のせいですか?」
「妖怪? 屋敷にそんなものは」
 言いかけて、若旦那は慌てて咳払いをした。
「あなたのお部屋も、この離れの先にあるのですか?」
 空とぼけて問う法師の言葉に、ええ、とか、まあ、とか曖昧に言葉を濁すも、渡り廊下をどんどん進む法師を、彼は必死に止めようとする。
「法師さまや皆様のお部屋は母屋に用意してありますよ。眠れないのでしたら、侍女に寝酒でも運ばせましょう」
「酒は夕餉の際に充分すぎるほど振る舞っていただきました。ああ、ここですな、離れは」
 長い渡り廊下を渡り切ったところにある、風情ある離れの障子の向こうで灯りが揺れている。
 弥勒はその前で立ち止まった。
 無造作に障子に手を掛けようとした法師を、屋敷の息子が慌てて制止した。
「法師さま! ここは私どもの私的な部屋です。いくらお客人とはいえ、無礼でしょう。ご遠慮いただきたい」
「ですが、珊瑚はこの部屋に泊まるのでしょう?」
 振り返った弥勒にあっさりと指摘され、若旦那は唖然とした。
「今夜、この部屋に出る妖怪を退治するのでしたら、私も手伝わなければなりませんし、もし、そうでないのだとしても──
 法師は思わせぶりに若旦那を見遣る。
「私と珊瑚は、まあ、そういう間柄ですから」
 さらりと言って、弥勒は障子を開け、呆気に取られている若旦那を尻目に、中に入ってぴしゃりと障子を閉めた。

「法師さま」
 障子を開けて部屋に入ってきた弥勒の姿を認め、振り返った珊瑚が立ち上がって、驚いた顔を見せる。
 弥勒は離れの中を注意深く見廻した。
 燈台に火が灯され、室内は薄明るい。
 案の定、妖怪の気配など微塵もないが、これ見よがしに夜具が延べられているのを見て、弥勒は憮然となった。
「屋敷の若旦那を待っているのか?」
「うん。人が大勢いると、妖怪が姿を現さないから、あたし一人に頼みたいって」
「何故、夜具が延べてある?」
「さあ? あたしは寝ずの番をするつもりだけど、若旦那様は自分で妖怪の出る場所を教えるって言ってたから、横になって妖怪を待つつもりじゃないの?」
 やれやれと法師はため息をついた。
「私や犬夜叉たちは、妖怪退治は明日の朝だと聞かされているんですよ」
「えっ? おかしいな」
 珊瑚は首を傾ける。
 弥勒は不機嫌そうに眉をひそめた。
 彼は彼女の肩をすっと抱き寄せ、いきなり片手で彼女の顎を掴むと、荒々しく唇を奪った。
「んっ……!」
 艶めかしい珊瑚の声。
「ん……んんっ──!」
 障子の外にはまだ屋敷の若旦那がいる。
 弥勒は、細く開けた障子の隙間から中を覗いているらしい彼に見せつけるように、激しく珊瑚の唇を吸い、呼気を奪い、口内を蹂躙した。
 珊瑚の身体の力が抜けていく。
 立っていられなくなって、彼女がその場にくずおれても、彼は口づけをやめず、膝をつき、華奢な肢体を抱きしめ、まるで何かの鬱憤を晴らすかのように、長い口づけに耽溺した。
 ようやく唇を離したとき、息も絶え絶えな娘は、瞳を潤ませ、頬を染め、苦しげに喘いで弥勒を睨んだ。
「ほ、法師さま、何を……!」
 だが、怒って怒鳴ろうとした珊瑚の濡れた唇に、弥勒は黙って人差し指をあてる。
 その色めいた仕草に、珊瑚の胸が妖しくざわめいた。
 彼の人差し指が障子の向こうを指し、珊瑚がそこに人がいることに気づいたとき、手燭を持った人影が、逃げるようにして渡り廊下を引き返していく姿が影になって朧に見えた。
 驚いた様子の珊瑚の耳元に弥勒はささやく。
「少しは危機感を持ちなさい。世間知らずで純情なところも可愛いが、危うくて目が離せん」
「え?」
「妖怪退治の手練れとはいえ、珊瑚は詐欺師に引っ掛かりやすい質かもしれんな」
「……それ、法師さまのこと?」
 はあ、と、ため息が洩れる。
 困惑気味の珊瑚の唇を指先でなぞり、軽く、弥勒はそこに己の唇を重ね合わせた。
「朝まで待っても、妖怪なんか出ないでしょう」
「でも、それじゃあ……どういうこと?」
「あの男が珊瑚を私たちから引き離し、おまえと一夜をともにしようとしただけですよ」
「嘘、そんな……」
「今、逃げていったのが何よりの証拠です」
 改めて、弥勒はそこに座り込む珊瑚を見た。
 小袖姿のままだが、飛来骨もここにある。
 あの若旦那となら、揉み合いになったところで、珊瑚のほうが強いだろう。
 どちらにしても、間違いは起こらなかっただろうと思われるが、弥勒の中に、嫉妬めいた感情が微かに湧いた。──自分以外の男に、隙を見せるな、と。
 弥勒はすっと手を伸ばし、娘のなめらかな頬を撫で、その指先を首筋にまで滑らせた。
「まあ、今宵、珊瑚は妖怪退治をしていることになっているわけですから。ここで、私と過ごしませんか?」
 燈台の火影で、妖しくきらめく珊瑚の瞳が、わずかに見開かれ、すぐに細められた。
「今宵は、酌をしてくれたあの娘と過ごしたいんじゃないの?」
 夕餉の席での法師の態度を、彼女はしっかり覚えていて、まだ怒っていた。
「よかったね、可愛い娘にずっと酌をしてもらって」
「私から酌をしてくれと頼んだわけじゃありませんよ」
「それにしちゃ、あんなに鼻の下伸ばしてさ」
 彼女は、ふん、とそっぽを向く。
 珊瑚の可憐な焼きもちはいつものことだが、その愛しい娘を屋敷の息子が手籠めにしようとしていたのだと思うと、彼の中に湧いた怒りとも嫉妬ともつかない激しい感情が、彼の欲望を煽り立てた。
 力任せにぐいと彼女を引き寄せると、娘は彼を屹と睨んだ。
「素直じゃないな」
 ささやく法師の声は、甘さを孕んで、頑なな娘の気持ちを惑わせる。
「あの娘の誘いを断ってまで、おまえを助けに来てあげたのに」
「!」
 その言葉の効果は絶大で、珊瑚は眦をきつくした。
「まさか、あたしが妖怪退治をしている間、法師さまはあの娘と一夜を過ごすつもりだったの?」
「どうしてそう思う? 私が愛しく思っているのは珊瑚だけで、他の娘を抱くことに何の意味もないというのに」
 間近に顔を寄せて低くささやけば、珊瑚の頬が桜色に染まったのが判った。
「せっかくの二人きりの夜です。花のかんばせを曇らせていては勿体ない」
「え……あっ──
 強引に腕を掴んで珊瑚を立たせ、夜具のところまで導くと、弥勒は彼女をそこに座らせた。
 嫉妬がくすぶり、すぐにでも押し倒したい気持ちだったが、両手で娘の顔を包み込み、焦らすように、額や頬、唇のすぐそばまで唇を滑らせるにとどめる。
──どうする? 嫌なら、やめます」
 繰り返される愛撫に酔わされ、陶然としつつも、彼女は唇を合わせてもらえないことがもどかしい様子だ。
 珊瑚は自分から膝立ちになり、法師の頭を抱きしめた。
「法師さま、あたしが欲しい?」
 その声音と眼差しに、弥勒ははっと息を呑んだ。
 普段は清楚で可憐な彼女だが、弥勒と枕を交わすようになってから、閨でのみ、このように艶めいた表情を見せることがある。
 自分以外、誰も知らない女の顔。
 そうした珊瑚のふとした匂やかな仕草や表情が、弥勒の男としての欲心を刺激する。
「いつでも欲しいと思っていますよ。でも、そんなふうに思われるのは、珊瑚は嫌でしょう?」
「酌をしてくれた娘のことも、欲しいと思った?」
「過去はいざ知らず、今は珊瑚と恋仲なのですから、他のおなごを欲しいと思うことはありません」
「ほんと?」
「試してごらんなさい?」
 珊瑚が知ったら戸惑うのではないかと思うくらい、激しい想いを穏やかな表情の下に隠している。
 弥勒は、己を抱く珊瑚の肩に顔をうずめ、手を彼女の腰に廻し、さり気なく褶を外し、帯を解いた。
 腰から背中をやわらかな手つきで撫でられ、珊瑚が小さく吐息を洩らした。
「いいんだな?」
「あたしだけなら」
 と、珊瑚は密やかにささやく。
「そういうこと、他の女に対しても思ってるんじゃなくて、法師さまがあたしのことだけ欲しいと思ってくれてるなら、それは……嬉しい」
 珊瑚の指が袈裟の結び目を解くと、法師は強い力で娘の肢体を抱きすくめ、二人の唇が重なった。
 ゆっくり、味わうように口づけは深くなる。
 いつになく積極的に、自分から唇を求めてくる珊瑚の仕草が、彼が侍女に誘われたことに嫉妬しているせいだと気づいた弥勒は、愛しげに、満足げに微笑を浮かべた。
 吐息が混じり、熱がこもる。
 濃密な一夜になりそうだ。
 乱暴なほどの手つきで、弥勒が珊瑚の衣の合わせを押し広げても、珊瑚は抗わなかった。
 そのまま、彼女を褥に押し倒し、白い首筋に唇を寄せ、舌を這わせる。
「ほう、し、さま──
 仰向けに倒された珊瑚は、あえかな声を上げ、風にしなる柳のように、伸し掛かる法師の首にしなやかに両手を廻した。
 弥勒の唇が白い肌に花びらを散らせる。
 珊瑚の花顔を曇らせるのも、晴れ渡らせるのも、結局は、弥勒の胸ひとつである。

〔了〕

2016.3.6.