後の朝のきぬぎぬの
障子越しの朝日を感じ、ふっと眼が覚めた。
弥勒の腕の中では珊瑚がまだすやすやと寝息をたてている。
「……珊瑚……」
弥勒は、低い声で意味もなくささやいてみた。
二人の身体に掛けられた一枚の衾の下は、一糸まとわぬ姿だった。
明け方近くまで絡み合っていたのだから。
衾から覗く珊瑚の鎖骨から肩の辺りを撫で、なんとなくその寝顔を見つめていると、昨夜の彼女の乱れた姿態と悩ましげな声が脳裏によみがえる。
もう夜明けだったが、にわかに欲望を覚え、弥勒は妻の喉元を撫で上げ、華奢な肢体に伸し掛かるようにその耳元に口を近づけてささやいた。
「珊瑚」
「ん――」
「珊瑚、もう一回だけ……」
「いやっ」
珊瑚は弥勒の愛撫から逃れるように寝返りを打ち、向こうを向いてしまった。
「いやって、おまえ……」
無意識の言葉とはいえ、愛しい妻の拒絶に少し傷つき、弥勒は身を起こしてため息をつく。
かといって、眠っている珊瑚を無理やり抱くなどということはしたくない。
「解りましたよ、夜まで我慢しますよ」
恨みがましく独りごち、枕元に脱ぎ散らした衣から自分のものをかき集めて身支度をする。
彼女の衣類はそこに丁寧にたたんで置いた。
ここ数日、弥勒は風邪をひいて寝込んでいた。
薬老毒仙の毒を飲んだ後遺症というべきか、未だ苦痛に鈍感な夫の身を珊瑚はひどく案じ、甲斐甲斐しく看病をしたが、その高熱にも拘らず、弥勒はそれほど苦しさを感じていなかった。
それでも風穴の呪いが解けたことで、少しずつ通常の身体に戻りつつあることを弥勒は実感している。
大丈夫だという彼の言葉をぴしゃりと退け、せめて熱が下がって一日経つまで床から起き上がらないようにと言い含める珊瑚の心配をよそに、弥勒には退屈な数日間だった。
そして、床払いをしたあと、風邪で寝ていた数日間の鬱憤を晴らすように、珊瑚を求めたのであった。
「少々、無理をさせたな」
自嘲気味につぶやいてみるが、その頬は緩んでいる。
せめて珊瑚をゆっくり寝かせてやりたいと、弥勒は台所で朝餉の支度に取りかかった。
* * *
「……」
待ちくたびれて、弥勒は障子越しの光を透かし見た。
朝餉の膳は整っている。
もうすっかり夜も明けて、そろそろ珊瑚が起きてきてもいい頃だ。
弥勒は寝室の珊瑚の様子を見に行くために、立ち上がって居間をあとにした。
「珊瑚?」
寝室の戸を開けると、相変わらず衾にくるまり、珊瑚はよく眠っているように見えた。
部屋に入り、弥勒は彼女の傍らに膝をつき、肩に手をかけて揺さぶろうとして、ふとその手をとめた。
枕元に置いていた彼女の衣の中から、肌小袖と湯巻が消えている。
ということは、いったん起きて、それらを身につけ、また横になったということだ。
どうして?
具合でも悪いのだろうか。
(もしかしたら、私の風邪が治っていなくて……)
珊瑚にうつしてしまったのか。
(大変だ――!)
熱があるのかと、慌てて珊瑚の額に触れようとしたら、それを嫌がるように彼女は身じろぎをし、衾を頭まで引き上げてしまった。
(と、とにかく薬だ。あと、今日の仕事だが……)
と、折よく玄関のほうから自分を呼ぶ声が聞こえた。
(七宝だ)
急いで玄関へ顔を出せば、果たして、そこに仔狐妖怪の七宝が立っていた。
「おはよう、弥勒。今日は犬夜叉と山ひとつ越えた先の村まで妖怪退治に行くんじゃろ? 弥勒の風邪が治らんかったらおらが手伝おうと思って、様子を見に来たんじゃ。風邪はもう大丈夫なのか?」
「おはようございます。七宝、朝餉は?」
「楓おばばのところで食べてきた」
「そうか。実はその妖怪退治のことなんだが……」
自分は全快したが、珊瑚が病気であることを弥勒は説明する。
「そういうわけで、すみません、今日の仕事に私は行けないと犬夜叉に伝えてくれますか」
「解った。珊瑚が病気なら仕方がない。弥勒の代わりはおらがしっかり務めてくる」
法師の愛妻家ぶりは七宝もよく知るところだったので、彼はすぐにうなずいた。
「頼みましたよ。仕事そのものは犬夜叉一人で片がつくでしょう。犬夜叉にもおまえにも、この埋め合わせはしますから」
「気にするな。珊瑚の看病は任せたぞ」
「それはもう」
手を振って駆けていく仔狐を見送り、弥勒は寝室へ引き返した。
まだ衾をかぶっている珊瑚を見て、彼は心配そうに表情を曇らせる。
そして、横たわる彼女の背後に座って声をかけた。
「珊瑚、具合はどうです?」
「……」
「熱があるのか?」
「……」
「何か腹に入れたほうがいい。粥でも作りましょうか?」
「……」
何を言っても返事を返さない珊瑚に不安が募る。
「珊瑚、起きているんだろう? 気配で解る」
それでも彼女は黙ったままで、弥勒は淋しげに吐息を洩らした。
「とにかく、今日、私はおまえのそばについていますから、おまえは安心して……」
「――法師さま、仕事は?」
か細い声が聞こえた。
弥勒は少しほっとして彼女のほうへにじり寄る。
「おまえが病気で苦しんでいるのに泊まりの仕事なんて行けません。先ほど、七宝が来たのでそう……」
がばっと珊瑚が起き上がった。
髪が少し乱れているが、病人とは思えない動作に弥勒は驚く。
「駄目じゃないか。仕事をそんな簡単に放り出すなんて! 第一、あたしは病気じゃない」
「病気じゃない?」
法師は手を伸ばし、妻の頬に触れてみた。
「確かに、熱はなさそうですな。しかし、さっきまで、起き上がれないほどだったじゃないですか」
「あっあれは……!」
珊瑚の頬がたちまち朱に染まる。
「あれは、何ですか?」
「だ……って、動けな……かっ」
「やはり、おまえ、どこか具合が悪いのではないのか」
不安げに彼女の両肩を掴んだ弥勒を、珊瑚は頬を染めたまま睨みつけた。
「だって! 足腰に力が入らなくて! た、立てなかったんだもの!」
「……」
弥勒が珊瑚の顔を覗き込むと、彼女はさっと顔をうつむかせた。
「起きようとしても起きられなくて……法師さまが来ても、恥ずかしくて顔を上げられなくてっ……」
「……」
自分をまじまじと見つめる夫の様子をちらと見遣り、珊瑚は急いで視線をそらせた。
「ゆ、夕べ、あんなに何度もしたから」
刹那、眼を見張った弥勒はぷっと噴き出し、次いで、くすくすと笑い出した。
「可愛い」
「笑い事じゃないっ」
「なんだ、そういうことだったんですか。口も利いてくれないから本当に心配しましたよ」
そして、夜具をめくり、耳まで真っ赤な珊瑚を横抱きに抱き上げた。
「ちょっと、法師さま!」
「だって、立てないんでしょう? 握り飯と味噌汁を作りましたから、まずは腹ごしらえをなさい」
「も、もう、立てる」
「いいから甘えていなさい」
弥勒は、終始うつむいたままの珊瑚の恥じらう様子が楽しくて仕方がないらしく、にこにこと笑みを絶やさず、愛しそうに妻の世話を焼いていた。
「そんなに激しかったかな」
解りきっていることを、揶揄するように問うてみる。
「……何の話よ」
「私は平気……いえ、むしろまだ足りないくらいですけど」
「あんたと一緒にしないで!」
珊瑚が黙々と朝餉を終えると、弥勒は彼女を再び抱き上げ、もとの寝所に運び込んだ。
肌小袖姿の彼女が夜具の枕元にたたんである小袖に手を伸ばそうとすると、法師はそれを制止する。
「どうして?」
「成り行きですが、今日の仕事は犬夜叉と七宝に任せてしまいましたし。一日くらい怠けたってばちは当たらんでしょう」
するすると袈裟を解き、衣を脱ぎ出す法師を見て、珊瑚は仰天し、手探りで小袖をたぐりよせた。
「法師さま、まだ朝だよ?」
「心配させた罰ですよ」
「誰のせいだと思ってんの!」
小袖をぎゅっと抱きしめて座ったまま後退さる珊瑚だったが、そんなことで彼を止められるはずもなかった。
白小袖一枚になった弥勒は珊瑚の手から着物を取り上げ、簡単に彼女を褥に押し倒す。
「やだって、法師さま、こんな明るいところで」
「そのようなことなど気にならなくなるくらい、夢中にさせてあげます」
ひどく羞恥を感じているらしい珊瑚の、やや怯えたような表情がまた、弥勒の欲心を煽る。
「んんっ――」
蕾のような唇に甘く吸いつき、慣れた手つきで帯を解いて、片手で彼女の肌小袖の裾を割る。
現れた白い太腿をそろそろと撫で上げると、珊瑚の躰がぴくんと跳ねた。
「感じてきました?」
「い……じわるっ」
くすりと笑い、弥勒は珊瑚の耳朶を噛む。
「観念しなさい」
結局、法師に抗うことなどできはしない。彼も彼女もそれを知っている。
珊瑚は明るい光を拒むように、固く眼を閉じ、弥勒の行為を受け入れた。
やわらかくしなる甘美な肢体を慈しむように抱き、やがて、弥勒はその胎内に己を解放させる。
そのあとも、呼吸が整うまで、二人は静かに抱き合っていた。
「法師さま、そろそろ……」
「もう少し。時間はあるのだから、すぐに離れるのは勿体ないじゃありませんか」
己の腕枕から身を起こそうとする珊瑚を、弥勒は抱き寄せる。
「今日はあと何回できるでしょうねえ」
「法師さまっ……?」
「冗談ですよ。今宵はちゃんと寝かせてあげます」
指先で彼女の艶やかな髪を梳き、額髪をかきあげると、弥勒は妻の頬に唇を寄せた。
「のんびりした朝ですな」
「そりゃ、仕事怠けてればね。それに、もう昼だよ」
「ま、こんな一日もたまにはいいでしょう」
二人だけの至福の時間を満喫するように、口づけを交わし、穏やかなまどろみに落ちていく。
心地のいい、障子越しのやわらかな陽射し。
遠くで鳥が啼く声がする。
互いのぬくもりに身をゆだね、二人は意識を手放した。
〔了〕
2009.11.29.