凍える舌と翳ろう心

 湯煙が漂う。
 山の中の温泉で、日々の闘いに疲れた身体を湯に浸し、独り、湯浴みをする珊瑚の姿があった。
 犬夜叉とかごめは現代におもむいていて留守。
 法師は七宝が見張ってくれているはずである。
 身体の芯まで温まり、腕を伸ばして湯を弾いた珊瑚は、湯からあがろうと岸に目をやった。と、その先に、法衣姿の青年がいる。
 彼女の衣類が置いてある辺りに、ゆったりと座ってこちらを見ている。
 軽く睨むと、法師は悪びれることなく、にっこりと笑みを送ってよこした。
「いやー、目の保養ですな」
 温泉はあまり深くないので、膝立ちのまま身をかがめて珊瑚は岸に進む。
「なんでここにいるの。七宝に見張られてたんじゃなかったの?」
「まいてきました」
 はは、と屈託なく法師は笑む。
「法師さま、かごめちゃんがいないと全く遠慮がなくなるね」
「おまえと私の間で何を遠慮することがあるんです。全てを許しあった仲だというのに」
「……法師さま、その言い方、なんかいやらしい」
「それにしても、おまえはいつ見ても美しいな。顔も姿も、鴉の濡れ羽色の髪も。このような場所で湯を浴びていると、山姫かと見紛うほどです」
 ありふれた世辞なのかもしれない。
 たとえば、これが他の女性であっても弥勒は賛辞を惜しまないだろう。
 そう思った刹那、珊瑚の胸の奥がつきんと痛んだ。

 ――あたし以外のひとにも、きっとこんなふうに言うんだ……

「綺麗じゃないだろ。こんな傷だらけの身体」
「傷はあっても肌は白くてきめ細かくて。充分美しいと思いますよ」
 それもやはり、過去に誰かに言った言葉かもしれないと珊瑚は思った。
 不安が肌をかすめる。
 そういうことがあってもおかしくはない。
 彼は自分よりずっと大人で、恋の経験も豊富で。でも、自分はそれを解った上で彼のことが好きで。
 今さらこんな些細な言葉の端々から彼の過去を思って動揺する己に珊瑚は軽い驚きを覚えた。
「美しいおまえを眺めているのは大好きです」
「でも、いま見ていられると困るの。あたしが身支度し終えるまで、向こうを向いていて」
 珊瑚が温泉からあがろうとすると、錫杖を置いて素早く立ち上がった弥勒は衣類の上に置いてあったタオルを彼女に手渡した。
 かごめが置いていったものだ。
 珊瑚は受け取ったタオルを広げて身を隠す。
 バスタオルではなくフェイスタオルなので、胸元から膝辺りまで、身体の前面にあてて彼女は温泉から岸に上がった。
 裸足で地面を踏むと、法師がそこから動いていないことに気づき、鼓動が跳ねた。
「法師さ……」
 拒む間もなく右手で腰を抱き寄せられ、首筋に顔を埋められた。
 彼の唇が喉元を這う。
 タオルで隠した肌に左手が忍び入り、乳房を掴んだ。
 ふくらみを軽く揉まれ、珊瑚は小さく喘いだ。
「やっ……」
 不埒な法師の振る舞いにともすれば流されそうな珊瑚だったが、理性を保とうと、彼の肩を押しやった。
「駄目、法師さま。すぐ七宝が捜しにくるよ」
「ああ、そうですな。続きはまた別の機会に」
 弥勒は珊瑚の頬に軽く口づけると、あっさりと身を引いた。
(え……?)
 あまりにも淡々とした彼の様子に逆に珊瑚は拍子抜けし、物足りない、などと思ってしまった。
(せめて、唇に口づけしてくれたって……)
 弥勒の一挙手一投足にどきどきしていた自分を馬鹿みたいだと思う。
 わけもなく哀しくなって、衣を着ながら、珊瑚は唇をきゅっと引き結んだ。

 この日、弥勒と珊瑚と七宝、そして雲母は、山寺に宿を頼んだ。
 続き間の二部屋を提供してもらい、弥勒と珊瑚は別々の部屋に床を取った。
 そのはずだった。
「……?」
 深夜、何かの気配で眼を覚ました弥勒は、闇に支配された部屋の中で、黒い影が自分に覆いかぶさってくるのに驚いて眼を見張った。
「……っ!」
 その人物の名を呼ぼうとした唇を、相手の唇で塞がれた。
(さんご――
 珊瑚のほうから唇を重ねてくるなど、初めてのことではないだろうか。
 ましてや、男の寝所を訪れるなど――
 ぎこちなく、何度も何度も珊瑚は弥勒の唇をついばむ。
 されるまま逆らわず、弥勒は眼を閉じて力を抜いた。
 珊瑚の眼が少し暗闇に慣れてきた頃、彼女は遠慮がちに弥勒の衿元をはだけさせ、唇を頬から首筋、彼の胸元へと移動させた。
 不器用に、ひたむきに、彼の肌を唇でまさぐり、口づけの雨を降らせる。
 今までに関わってきた女たちと比べ、彼女の愛撫はひどくたどたどしいものだったが、それ以上に、ひたひたと五感に迫るような甘さが心地好く、この快美感にずっと浸っていたいと弥勒は思った。
 そんな彼女の動きが、ふと、とまる。
 瞼を開けると、当惑しきったような珊瑚と眼が合った。
「続けて」
 静かな弥勒の声が先を促す。
 途中で恥ずかしくなったらしい珊瑚は小さく首を振り、弥勒の胸に耳を当て、心臓の音に耳を澄ませた。彼の心音は彼女を安心させる。
「……ごめんね」
「私は全然構いませんが。むしろ、珊瑚から忍んできてくれるのは大歓迎です」
 弥勒は身を固くしている珊瑚の髪を撫でた。
「だが……何かあったのか?」
「ごめん。法師さまのこと考えてたら眠れなくて」
「私のこと? 風穴のことを?」
 彼の胸にすがりつき、じれったそうに珊瑚は首を横に振る。
「そうじゃない。法師さまの……今までの女関係」
「藪蛇ですな……まあ、ご想像の通りと言うしか」
 法師は自分以外にも何人もの女を知っているのだと思うとたまらなかった。
 自分より前に彼が愛した女たちの存在を思うと苦しくて、どうしようもなくて。
 珊瑚は悩ましげに眉をひそめた。
「昼間だって、あたしが湯浴みしているのを見て、誰か昔のいい人のことを考えてたんだろう?」
「どうしてそうなる」
 珊瑚の思考の飛躍に驚いて弥勒は彼女の顔を見ようとしたが、彼女は弥勒にしがみついたまま、顔を上げなかった。
「なんかよそよそしかった。ちゃんと口づけしてくれなかったし、あたしのこと褒めてくれたけど、あたし以外の人にだって法師さまは……」
 祝言を待たず、弥勒に抱かれたことは珊瑚を有頂天にさせていた。
 何よりも強い弥勒の意思表示に思えたからだ。
 しかし、弥勒にとっての初めての女は自分ではなく、過去、彼は幾人もの女と同じ行為をしてきたのだと気づいた。
 その中に忘れられないひとがいたとしても不思議ではない。
 勝手に妬いて、勝手に拗ねて、夜中に法師さまを起こして――あたしは何をやってるんだろう。
「解ってる。そんなこと言い出してもしょうがないって。でも、法師さまにはあたしだけを見てほしいの」
「おまえ、何か思い違いをしていますね」
 弥勒は自分の胸に顔を押し付けている珊瑚ごと身を起こし、そのまま身体を反転させた。
「……っ、何するの!」
「このまま終わると思ったんですか?」
 先程とは逆の体勢で身体を組み敷かれた珊瑚は、怯えたような眼つきをした。
「確かに、過去に関係を持った女は――少ないとは言えませんが、恋愛といえるものではない」
「うそ……」
「昼間のことはおまえにも責任があるんですよ。あのように無造作に湯からあがってくるから、こっちが狼狽えましたよ。かといって、まさか、あそこでおまえを押し倒すわけにはいかんでしょう。いつ七宝が来るかもしれんのに」
 暗闇の中で、珊瑚はじっと法師の本心を汲み取ろうとした。
「まだ解りませんか。愛しい女があのように無防備な姿で目の前にいて、私は欲と闘っていた。それをどう誤解すればおまえの言うようになるんです」
 弥勒は手早く珊瑚の帯を解き、彼女の着衣を剥いでいった。
「あっ、あの、法師さ……」
「襖ひとつ隔てた向こうに七宝がいる。声は上げるな」
 慌てて手の甲で口を塞いだ珊瑚の躰を開かせ、弥勒はその中心に顔を埋めた。
 花芯を巧みに舌で攻められ、たちまち珊瑚はうねるような快感に支配される。
 息を乱し、声をこらえて快楽に耐える様はひどく扇情的だ。
 軽く達した珊瑚に伸しかかり、弥勒は、涙をためた彼女にささやいた。
「おまえがどう思っているか知らんが、女として愛したのはおまえが初めてだし、愛しいと思って抱いたのもおまえが初めてだ」
 かすれた声で伝え、躰を繋げる。そして激しく突き上げた。
「……っ!」
「私がおまえを格別美しいと思うのは、おまえが私の愛した女だからだ」
 彼の言葉にぎゅっと眼を瞑ると涙が頬を伝い落ちた。
 耐えられず、声がこぼれそうになった珊瑚の唇を、弥勒の唇が荒々しく塞ぐ。
 信じたいと思った。
 彼の唇から、指先から、彼の想いが流れ込んでくる気がする。
 その想いを全身で受け止め、己の想いも彼に伝わるようにと、珊瑚は精一杯口づけを返した。

 ひとつの臥所に横たわり、闇を見つめ、二人はじっと抱き合っていた。
「ごめんね、法師さま」
 しゅんとなって、申しわけなさそうに珊瑚がつぶやくと、彼女の髪を撫で、法師は苦笑した。
「本当ですよ。いもしない相手に妬くとは、おまえも器用な」
 法師と愛しあったことで、珊瑚も少しは冷静になれたようだ。
「私はおまえのものなのだから、言いたいことがあればはっきり言えばいいでしょう」
「うそ。あたしは法師さまのものだけど、法師さまはあたしのものにはなってはくれない」
 あたしばっかり焼きもち妬いて、馬鹿みたい、と珊瑚はつぶやく。
 弥勒は楽しげに小さく笑った。
「でも、珊瑚の嫉妬なんて可愛いものですよ。もし、これが私だったら、かっとなってその場でおまえを無理やり犯していたかもしれん」
「法師さまは口で言うだけでそんなことしないよ。それに、あたしは……法師さま以外の男の人なんて知らないもん」
 少し悔しげな珊瑚を愛らしいと思った。
「だから私は安心していられるんだが……おまえは、おまえが考えている以上に愛されているのだから、もっと自信を持ちなさい」
「愛されてるって……法師さまに?」
「他に誰がいるんです」
 その言葉にするすると心がほどけていくようで、驚きに、珊瑚は大きく息を吸い込んだ。
 愛されている実感が欲しかった。
 それに気づき、それを得て、ごく自然に彼女は弥勒の唇に自らの唇を重ねていた。
 唇が離れると、弥勒は手を伸ばして珊瑚の頬に触れた。
「ここで寝るか? おまえがここで寝ていても、私が七宝に叱られるだけでしょう」
「ううん。七宝のところに戻る」
「何だか、妬ける物言いですな」
 くすりと笑い、彼女の額髪をなぶる法師の手から逃れ、珊瑚は上体を起こした。
 続いて身を起こそうとした弥勒の肩に手を置き、彼女は彼の動きをやわらかく制した。
「いい。法師さまは寝てて」
 法師さまは欲しいものをくれたから。
 そっと絡まり、そっとほどける指先。
 名残惜しい気持ちを振り払って立ち上がった珊瑚は、隣室の襖を細く開け、その向こうに影のように滑り込んだ。
 その姿を追っていた弥勒の視線と珊瑚の視線が、襖を閉める刹那、絡んだ。

〔了〕

2010.3.6.