水辺の午後

 森の奥には小さな滝があった。
 小さな、といっても、ちょうど滝行ができる形状で、その日、弥勒は久しぶりに滝に打たれていた。
 珊瑚は一応、遠慮して、今夜の宿を頼んだ村で彼の滝行が終わるのを待っていたが、結局待ちきれなくて、森へと法師の様子を見に行く。
 村から森は近い。
 雲母は連れず、飛来骨も置いて、珊瑚は一人で森の中を歩いた。
(せっかく修行しているところに押しかけちゃ、やっぱり迷惑だよね)
 頭の中でちらと反省する。
(法師さまに依存しすぎかなあ……)
 物思いにふけりながら歩いていると、滝が見える辺りまで辿り着いた。
「あれ?」
 滝は静かに流れ落ちている。
 そこには誰もいない。
 しかし、草を踏み分けた跡など、人がいた痕跡は確かに残っている。ふと見遣ると、滝壺の畔に濡れた白衣びゃくえが置き去りにされていた。
 どうやら入れ違いになったようだ。
「……」
 気が抜けた珊瑚はそこに座り込み、空を見上げ、厳粛に流れる滝に視線を移した。
(法師さまが真面目に修行しているときに、あたしは何してるんだろう)
 しばらく彼女は滝を眺めていたが、
(あたしも気を引き締めていかなきゃ!)
 不意にすっと立ち上がると、辺りにひと気のないことを確認して、褶を外し、小袖を脱いだ。
 こんなところで肌衣姿になるのは恥ずかしくはあったが、それより、自分を鼓舞する気持ちのほうが強い。
(あたしも滝行しよう)
 午後のやわらかい木漏れ日を受け、深呼吸をひとつして、珊瑚はそっと滝壺の中に足を入れた。
「冷た……」
 気温は暖かいとはいえ、山から流れてくる水だ。
 滝の水は眠気も吹っ飛ぶような冷たさだった。
「が……我慢。法師さまだって、これを耐えているんだから」
 自分に言い聞かせ、そろそろと彼女は滝の落ちるほうへ進んだ。
 ふと思いつき、髪を結んでいる元結いを解いて、長い黒髪を首の後ろできりりとひとつに結い直す。
 そして、滝に打たれようとしたが、
「きゃああっ!」

 ばっしゃーん──

 滝のあまりの勢いにおされ、水の中に倒れ込んでしまった。
「つっ、冷たっ! 冷たっ……!」
 慌てて起き上がろうとするが、頭からかぶった水が凍るように冷たくて、うまく身体が動かない。滝壺の中に腰まで浸かって座り込み、何とか両手で身体を支えたが、あまりの寒さにかたかたと震えてしまう。
 大きく息を呑んで、はっと顔を上げると、そこに彼がいた。
「……」
──珊瑚……」
 呆気にとられた表情の弥勒が、大きく眼を見張って、滝壺の中の娘を見つめている。
「な──何をしているんですか、珊瑚」
「ほ……し、さま……」
 びっくりしたように大きく見開かれた娘の潤んだ瞳、小さく開いた濡れた唇。
 肌衣をまとっただけの彼女はずぶ濡れで、髪も肌衣も濡れそぼち──衣は肌に貼りついて、躰の輪郭が浮き上がり、微かに透けて、なんというか──ひどく艶めかしい。
 弥勒は手にした錫杖を放り出して、ばしゃばしゃと水の中に踏み込んだ。
 そして、びしょ濡れの珊瑚の身体を抱き上げると、無言で岸まで運び、地面に下ろした。
「なんて格好してるんですか! 私以外の男に見られたらどうする気だ!」
 弥勒は珊瑚の顔を覗き込むようにしてたしなめるが、寒さのあまり凍える珊瑚は言葉を返すことすらできなかった。
「ああ、もう」
 法師は袈裟を脱ぎ、それを彼女の頭からかぶせた。そして、大急ぎで、滝の横の岩場で焚き火の用意に取りかかった。

* * *

 焚き火の火が勢いよく燃えている。
 ようやく人心地がついた珊瑚は、小さな声で言った。
「……ありがとう」
 弥勒はため息をつく。
「忘れ物を取りに戻ったからよかったものの、あんな無防備な姿でいるなんて……心臓が止まるかと思いました」
「ごめん」
 珊瑚はしゅんとして下を向いている。
 彼女は小袖をじかにまとい、その上に法師の袈裟を羽織っている。法師は緇衣姿だったが、滝壺に入ったため、裾のほうがまだ湿っていた。
 濡れた衣を乾かしながら、二人で火にあたっている。
「まだ寒いか?」
「……少し」
 小さな声で珊瑚が答えると、弥勒はおもむろに立ち上がり、珊瑚の背後に腰を下ろした。
「え、あの」
 後ろから覆うように身体を抱きしめられ、珊瑚は戸惑ったような声を上げた。
「いいよ。あたし、まだ身体が冷たいだろう? 法師さまが冷えてしまう」
「おまえを温めるんですよ」
 言葉とともに、法師は後ろから珊瑚の頬に唇を当てた。
「愛しいおなごが凍えそうなのに、放っておけないでしょう?」
「……」
 弥勒の腕に包まれて、珊瑚は恥ずかしげに、でもどこか嬉しそうに炎を瞳に映して口許を笑ませた。

「あの、法師さま」
 やがて遠慮がちに、珊瑚が言った。
「あの、えっと」
 弥勒の手の動きが怪しい。
 珊瑚を抱きしめる彼の手が、そろそろと、あちらこちらへと移動している。
「何です?」
「手が……」
「温めてあげてるんですよ」
 しれっと答える法師の声があまりに淡々としていて、珊瑚は頬を赤らめて、彼の手を捉えて、そっと抓った。
「駄目」
「どうして」
「あたしの嫌がることしないで」
 彼の両手が背後からぐっと彼女の腰を抱きしめた。
「……嫌なのか?」
「えっ」
 耳元でささやかれ、彼女は固まる。
「私に触れられるのが、嫌か?」
「い、嫌じゃない」
 甘い声音にどぎまぎして、珊瑚は反射的に答えていた。
「では、いいですね?」
「あっ……」
 弥勒の唇が珊瑚の首筋を這う。
 肌を合わせる許可を取られたのだと頭では理解した。
 けれど、背後に密着している弥勒の昂りを感じると、微かな動揺を覚える。鼓動が速い。
「法師さま」
「できるだけ我慢しようと思ったんだがな」
 無理だった、と彼は自嘲するように掠れた声で言い、腰を抱きしめていた手で珊瑚の両の乳房を揉みしだいた。
「ん──
「おまえがいけないんですよ。あんな危うい、色っぽい姿で、滝壺の中に落ちてるんですから」
「落ちてない。真面目に滝に打たれようと思ったんだ」
「私こそ真面目に滝行したのに。おまえが誘惑するから、修行の成果なんてどこかへ飛んでいってしまいましたよ」
「誘惑したんじゃ……ない」
 弥勒の手が小袖の中に滑り込んできた。
 全身が熱くなるほどに彼の掌が心地好くて、珊瑚は陽だまりの猫のように身をよじって彼の胸に頭を押しつけた。
「法、師さま──
「珊瑚、欲しい」
 珊瑚に背後を向かせ、弥勒はそっと唇を合わせた。
 二人はゆるやかな口づけに耽る。
 このような深い恋仲になって、まだ互いに戸惑いも強い。
 貪欲に求め合うというよりも、互いの存在を確認するように、やわらかな愛撫を二人は重ねた。
 やがて、珊瑚は身を包む袈裟を解かれ、地面に押し倒された。伸し掛かる弥勒が彼女の衣を押し広げ、なおもすがるように唇を求めた。
 唇が触れ合い、そっと離れ、再び重なる。
「熱いね、法師さま」
「ああ。灼けつくようだ」
 ぽつりとこぼれた珊瑚のつぶやきに、掠れたささやきで弥勒も応えた。
 そしてまた唇を重ね、甘く求め合う。
 果てのない口づけを飽きずにくり返しながら、弥勒の手が珊瑚の肌をなぞる。
「んんっ」
「……珊瑚、もう」
 躰を重ねるごとに微かな罪悪感がちくりと肌を刺すが、その痛みすら快感に変えてしまうほど、ともに湧き上がるのはたとえようもない甘美な衝動だ。
 木漏れ日がきらきらと輝く。
 滝は厳粛に流れ落ち、滝壺に絶え間ない波紋を作る。
 風はひんやりとしているが、互いの肌は熱かった。その肌に溺れるように、二人は意識を昂らせていく。
 溺れてはならないと言い聞かせながら。

 ふと、瞼の裏に光を感じた。
「……法師さま」
 焚き火の炎がやわらかに揺れている。
 微睡んでいた珊瑚に口づけた弥勒が、そっと顔を離したところだった。
「法師さま、髪、まだ湿ってる」
 滝行の名残である彼の湿った髪に珊瑚が手を伸ばすと、法師は苦笑し、その手を取って、珊瑚の指を甘く噛んだ。
「滝行など、何の意味もなかったな。おまえがそばにいるだけで、私は簡単にただの男になってしまう」
「法師さまは、法師さまだ」
 横たわる珊瑚の髪に、弥勒は手を伸ばした。
「おまえの髪も、湿ったままだな」
「髪ぐらい、すぐ乾くよ」
 娘は気だるげに身を起こして、小袖を手に取って裸体を隠すと、そっと身を乗り出して、乱れた緇衣をまとった弥勒の唇に口づけた。
 そのまま、彼の唇を軽くついばんでいるうちに、気づくと、法師に固く抱きしめられていた。
 甘い痛みがうずく。
「静かだね」
「ああ。静かだ」
 聞こえるのは滝の流れる音だけ。
 感じるのは互いの体温だけ。
 抱き合って、束の間の平和を享受する。
 それは闘いの合い間の、ささやかで贅沢な時間だった。

〔了〕

2022.3.6.