悩める花心
突然、降り出した雨は、瞬く間に激しくなった。
「うわ、ひどい降りだな」
同じ村の村人の家に薬草を届けに来ていた珊瑚は、その家の若者のつぶやきとともに空を見上げる。
台所の窓から外の様子を窺って、若者が言った。
「これじゃあ、帰りつく頃には珊瑚はずぶ濡れになっちまう。しばらく雨宿りしていけよ」
「うん。そうするよ」
台所の土間から続く板の間に並んで腰掛け、珊瑚は若者に持ってきた数種類の薬草の説明を始めた。
まだ、雨足は弱くならない。
「やまないね」
二人はしばらく他愛ない世間話をしていたが、若者のほうがふっと小さく笑った。
「なに?」
「いや。こうしてると、まるで逢い引きしてるみたいだなって」
「えっ」
「だってほら、家には他に誰もいねえし、薄暗いし、この雨じゃ誰も来ねえだろうし」
「……」
「明日、村の奴らに珊瑚と逢い引きしたって自慢してやろう」
「ちょっと、八雲」
悪戯っぽく笑う若者──八雲の言葉を、珊瑚は慌てて遮った。
「そんなこと言うもんじゃないよ。あんた、近々、みっちゃんと祝言あげるんだろう? みっちゃんが気を悪くするよ」
「このくらいの軽口、あいつは気にしねえよ。みつはおれが珊瑚に惚れてたことを知ってるし、みつだって、前に法師さまが好きだったんだから。お互い解ってるっていうか」
「なら、いいけど」
弥勒と珊瑚にそれぞれ片想いしていたみつと八雲は、互いの失恋話で盛り上がって意気投合し、それが切っ掛けで仲良くなったのだという。その後、二人の関係は恋愛に発展し、もうすぐ祝言をあげるまでに至る。
珊瑚のほうは、妖怪退治屋という職業にあって、男と一緒にいてもそれは特別なことではなかった。
よって、八雲に対しても恋愛を意識することなく、友達として付き合っている。
でも、これが、もし法師さまだったら──
ふと、ここにいるのが自分と八雲ではなく、法師と他の女だったらと想像し、珊瑚はさーっと蒼ざめた。
「……」
家の中には他に誰もいなくて、薄暗くて、誰も来ないだろう土砂降りの中。
法師さまと誰か女の人が、二人きりでいたら──
「……やっぱり、駄目だ」
小さなつぶやきが洩れた。
「どうかしたか?」
怪訝そうな八雲には答えず、珊瑚はいきなり立ち上がった。
「ごめん、あたし帰る!」
「もう少し小降りになるまで待ったらどうだ?」
「用事思い出したの!」
「じゃあ、せめて笠を……って、おい!」
八雲がとめる間もなく、彼の家を飛び出した珊瑚は、土砂降りの中を一目散に駆けていった。
* * *
自宅に帰りつく頃には、珊瑚はびしょ濡れになっていた。
その姿で台所の土間から入ると、物音を聞きつけて家の奥から出てきた弥勒が、妻の姿を見て驚いた顔をした。
「どうした、珊瑚? ずぶ濡れではないか。てっきり、どこかで雨宿りしていると思ってましたよ」
「法師さま……」
泣きそうに眉を曇らせた珊瑚は、近づいてきた弥勒の手を両手でひしと握り、悲痛な声で言った。
「あたしを嫌いにならないで……」
「はい?」
「すっ、捨てないで!」
わけが解らない法師は、唖然と珊瑚の顔を眺めている。
「一体どうしたんです? まず、その小袖を着替えなければ」
弥勒は珊瑚の衣に手を掛けたが、珊瑚は後ろを向いてうつむいてしまった。
「や、恥ずかしい……」
「脱がないと風邪をひきますよ? 袈裟で隠してあげますから」
弥勒はするりと袈裟を解き、珊瑚の衣を手早く脱がせると、冷えた素肌を袈裟でくるんだ。
彼女はそのまま寝間まで連れていかれ、弥勒が着替えを取り出す間、じっとうつむいて座っていたが、
「法師さま」
「何です?」
「嫌わないで。法師さまに嫌われたら、あたし……」
「嫌いませんよ。おまえ、おかしいぞ?」
うつむく珊瑚の髪を布で拭きながら、弥勒はいつもの口調で滑らかに言った。
「私はいつもおまえを愛しく思っているし、それはこれからも変わりません」
「あたしが、その、浮気とかしても……」
「はっ?」
一瞬、弥勒は固まった。
「……えっと、珊瑚が……浮気……?」
その二つの言葉が結びつかない。
絶句していると、おどおどと珊瑚が上目遣いに彼を見遣った。
「あの、法師さまは、誰もいない家の中に男女が二人きりでいるのって逢い引きだと思う……?」
「見ようによっては、そう見えますな」
「……やっぱり……」
珊瑚は肩を落とした。
屋根を打つ激しい雨の音が聞こえる。
その音を聴いていると、不安になる。
弥勒は彼女の髪を拭く手をとめ、恐る恐る妻の顔を覗き込んだ。
「まさか、この雨の中、男と二人きりになって、襲われて逃げてきたとか……?」
緊張を孕む低い声に珊瑚は慌てて顔を上げて首を横に振る。
「ちっ、違う。雨宿りさせてもらって、八雲が冗談で逢い引きみたいだなって言って、それで……」
「あいつ、まだ珊瑚にちょっかい出してるのか?」
「違う、冗談なの。逢い引きじゃないよ。でも、もし法師さまがそんな状況にあったら、あたしはすごく嫌だなって思って……」
「それで?」
「法師さまが誰か女の人と長い時間二人きりでいるのは、あたしはとても嫌だから、法師さまも、あたしが男の人と二人きりでいるのは嫌なんじゃないかと」
彼女はまとっている袈裟を握りしめて、そわそわとまばたきをした。
「法師さまが嫌がることをして、嫌われたらどうしようって。そう思ったら、いたたまれなくなって……」
そして不意に夫のほうを見遣る。
「あのっ、浮気じゃないからね! 逢い引きに見えるかもしれないけど、あたしも八雲もそんなつもりは全然──」
狼狽えながら必死に説明する珊瑚の可憐な様子を、弥勒はじっと見つめた。
彼女は一枚の袈裟にくるまって、子供のように床にちょこんと座っている。
その下は何もまとっていないと思うと、たまらなかった。
「珊瑚っ……!」
考えるより先に、出し抜けに、弥勒は珊瑚を抱きしめていた。
「そんな可愛いことを言うな。嫌いになるどころか、ますますおまえが愛しくなって困る」
「えっ、あ……」
抱きすくめた妻の唇を、弥勒は甘くついばんだ。
そして、彼女の躰を包む袈裟に手を掛ける。
「これは罰です」
「罰?」
「男と二人きりでいて、私に浮気を疑われると思ったのだろう? その罰だ」
雨は未だ降っている。
窓を閉め切った屋内は、薄暗い閉ざされた空間であり、まるで深い海の中にいるようだ。
彼は彼女の躰を床に横たえ、その身からそっと袈裟を剥いでいった。
「あ──」
「何があっても珊瑚を手放すものか。おまえが誰のものか、解らせてやる」
露わになる白い肌は、寒さのせいか緊張のためか、微かに震えていた。
「……冷たいな。私が温めてやろう」
「んん──」
大きな掌が、肩を、胸元を這い、珊瑚は吐息を洩らし、背中を反らせた。
そのまま彼の両手が両の乳房を掴み、揉みしだく。
彼の唇がふくらみの頂点を食み、舌先がそこを嬲る。
珊瑚はもどかしげに身をくねらせた。
弥勒の唇がゆるやかに移動して、彼女の左の乳房の下を吸い上げた。
「あっ……」
強く吸われ、そこばかり執拗に舐められる。
「んっ、なに……?」
「おまえは知らないでしょう。ここに黒子があるんですよ?」
「黒子……?」
「そう。自分では見えんだろうから、この世で私だけが知っている珊瑚だ」
言いながら、黒子があるというその場所を、ちゅっと音を立てて彼は吸った。
「だから、愛しい。この先も、私以外が見ることはない。おまえは私のものだから」
「法師さま」
吐息を洩らし、珊瑚もまた、愛おしげに弥勒の頭を抱きしめる。
「法師さまにもあるかな。法師さまが気づいていない黒子」
「きっと、どこかにあるでしょう。自分では見えない場所に、黒子とか傷跡とか」
「探してみる。あたししか知らない法師さま」
弥勒は珊瑚の乳房から頭を上げて、二人は深く口づけを交わした。
「覚えておきなさい、珊瑚。私がおまえを嫌いになるなどあり得ない」
「あ、あたしは……法師さまが浮気したら、嫌いになるかも」
頬を染め、恥ずかしげに法師から眼を逸らす珊瑚の太腿を焦らすように撫で上げて、弥勒は自らがまとうものを脱ぎ捨てた。
「そんなことは絶対にさせん」
横たわる妻に覆いかぶさってきた弥勒の手が、彼女の下肢をまさぐった。
「おれを嫌いになどさせるものか」
「ほ、しさま……あっ……!」
彼女を知りつくした指に翻弄され、珊瑚は喘ぎ、大きくのけ反る。
嫌いになることなどない、嫌いにさせないという弥勒の言葉は、珊瑚を安堵で満たした。心も躰も最愛の人に委ねる。
「好き、法師さま……」
「おれも──珊瑚、愛している」
「あ、あたし、もう……」
潤んだ瞳で懇願され、弥勒は珊瑚に伸し掛かる。
彼女の表情の艶めかしさに、彼は耐えかねたように熱いうねりの中に腰を進めた。
「はっ……ん、ああっ」
弥勒が突き上げ、珊瑚が悩ましげに声を上げる。
蕩けるように二人は抱き合う。
降りしきる雨は、いつしか雨足を弱めていた。
裸のまま、二人は袈裟にくるまって、珊瑚は法師の胸元を唇でまさぐっていた。
「くすぐったい、珊瑚」
「これ、ここの、何かの傷跡かな」
「そこなら自分でも見えます。背中とか……ああ、足の付け根とか探してごらんなさい」
「……馬鹿」
まだ甘い気怠さの中に揺蕩う珊瑚は、ぐったりと法師の胸板に頬をよせて、眼を閉じた。
「もう、浮気はしないな?」
「浮気じゃないって。浮気だって法師さまに誤解されるのが怖かったの」
「可愛いな、珊瑚は」
「法師さまこそ、他の女と二人きりになったりしないでね?」
「おなごが複数なら、構いませんか?」
「……」
珊瑚は法師の手を取り、悪戯っぽくその指を甘噛みした。
「駄目」
弥勒はくすりと笑い、腕の中の珊瑚を、力いっぱい抱きしめる。
「口づけを」
「いいよ」
ささやく唇が重ねられ、吐息が重なり、熱がこもる。
まだ聞こえる雨だれに重なるように、甘い睦言はいつ果てるともなく続くのだった。
〔了〕
2021.3.6.