どうしてこういうことになったんだろう。
 靄のかかったような意識の中、苦痛と快感の波に翻弄されながら、珊瑚はふっとそんなことを思った。
「……あっ、ん……は、ああっ──
 腰を掴まれ、秘所を深々と貫かれたまま、激しく揺さぶられ続けている。
 二人とも肌小袖をまとっていたが、その衿元は大きくはだけられ、薄く色づいた珊瑚の肌が艶かしく色香を放っていた。
 覚えているのは、誘ったのが、確かに自分だったということ。
「……珊瑚……」
 掠れた声で名をささやかれ、刹那、甘い戦慄が全身を駆け巡り、珊瑚はぎゅっと法師にしがみついた。

パンドラ − 禁忌 −

「法師さま、大丈夫?」
 いつになくぼんやりと物思いにふけっていた弥勒は、気遣うような珊瑚の声に、はっと顔を上げた。
 ──自分を追ってきたのか。
 珊瑚の向こうの晴れた夜空に上弦の月が見える。
「あ……ああ、珊瑚。どうした?」
「どうしたじゃないだろう? 法師さまのほうが、なんか変だ」
 宵から仲間のもとを離れ、独り、木々が開けた場所で月を眺めていたらしい法師を案じ、珊瑚はその顔を覗き込むようにした。
 月を背にした珊瑚の表情はよく見えないが、その黒珠の瞳から眼を離すことができなかった。
 顔を見られたくなくて、座したまま、弥勒は無言で彼女の腕を取ると、己の腕の中に引き入れた。
「法師さま……?」
 戸惑ったような珊瑚の声が聞こえる。
 だが、弥勒は意に介することなく、彼女の身体を後ろ向きにし、背後から抱え込むように腕を廻した。
 薬であり、毒でもあるそれを飲んでから、確かに痛みや苦しみから解放された。
 後悔はしていない。
 だが──
(今さら、犬夜叉の言葉を思い出すなんてな……)
 ──おまえが死んだら、珊瑚はどうなる──
 違う。ああしたのは珊瑚との未来を守るためだ。
 時間には限界がある。
 ともに生きるため、ともに闘うため、他に選択肢などなかったはず。ならば。
「珊瑚……おまえは、私が望むことだったら、どんなことでも許してくれるか?」
「……どういうこと?」
 ──おまえを護るために、この生命を差し出すことさえも──
 決して言葉にすることはできないその想いに、弥勒は自嘲するように唇をゆがめた。──おれは、生き急いでいるように見えるのだろうか。
 少しの間、黙っていた珊瑚が、ゆっくりと、つぶやくように言葉を洩らした。
「あたしは法師さまの望むことなら、何でも叶えてあげたい」
 珊瑚はおもむろに自分の身体に廻された法師の右腕を手に取ると、そっと抱きしめた。
 はっとした弥勒が、瘴気の傷を見られてはと咄嗟に掌を握り締めたが、そのようなことに構うことなく、彼女は数珠に護られたその手を頬に押し当てた。
「だけど、たぶん、許せないことだってあると思う。それは法師さまを許せないんじゃなくて、あたしが、あたし自身を許せないんだ」
 その行動は無意識なのか、それとも意識的なものだったのか……
 弥勒は微かな動揺を覚え、夜の一部を切り取ったような珊瑚の緑髪から、昏い視線を逸らした。
「……法師さまはどうなの?」
 珊瑚の声音は静かに続く。
「あたしが望んだら、それがどんなことでも許してくれる?」
「珊瑚──
 もし、これが逆の立場だったら。
 そう考えて、弥勒はぞっとした。
 己のために珊瑚が生命を投げ出すなど、あってはならない。許せるはずがない。
 刹那、わずかに法師の力が緩んだのを感じ取り、珊瑚は彼の腕に抱かれたまま、その身を反転させた。
 法師と向き合い、つと顔を見上げてから、そっと袈裟を握り、その胸に顔を埋めた。
 が、すぐに華奢な肩を掴んだ法師が、彼女をやさしく引き離す。
「よしなさい、珊瑚。──歯止めが利かなくなる」
 抑揚のない声を不審に思い、探るように彼を見つめた珊瑚だが、やがてその意味するところを察すると、夜目でも判るほどに頬を染め上げた。
 しかし、夜の闇を宿したような瞳の深淵に吸い込まれそうで、視線を逸らすことはできなかった。
 深遠なる瞳の奥の深淵に。魅せられる。
 底が知れない──
「もし──もし、いま、あたしが……その、法師さまが言ったような、ことを望んだとしたら──法師さまは、それを叶えてくれる?」
 言ってから、驚いた。
 こんなことを口にするつもりじゃなかったのに。
「珊瑚……?」
 法師のほうも相当驚いたようだった。
 月に狂わされたのか。目の前の男の深すぎる瞳の色に蠱惑されたのか。
 はっと我に返った珊瑚は、眼を見開いて己を見つめる法師からきまり悪げに視線を逸らし、そのまま、あてどなく瞳を彷徨わせた。
「ご、ごめん。解ってる──から」
 法師さまの気持ち。
 奈落を倒し、この呪いが解けるまでは、と──でも、ともに生きようと約束してくれた。
「あたし、どうかして……」
 すい、と顎が持ち上げられた。
 つられて珊瑚が視線を上へ向けるのと、弥勒の顔が彼女の顔にかぶさるのが同時だった。
 唇にやわらかな感触。
(え……?)
 それが弥勒の唇だと知るや、珊瑚の鼓動は跳ね上がった。
 袈裟を握り締めたまま、ぎゅっと眼をつぶり、壊れそうな心臓の音にひたすら耐えた。
 すくいあげるように小さな顎を捉えた弥勒は、珊瑚を怯えさせないように、その紅唇をやわらかく食む。
 しかし、彼女に拒む様子がないことを見てとると、不意にその手を後頭部へ廻し、徐々に口づけを深くしていった。
「ん……ん、んん……」
 息ができない。
 いつの間にか弥勒の舌が口内にまで侵入し、彼女の舌を甘く吸い上げている。珊瑚は夢中で己の舌に絡みつく弥勒の舌と、彼の呼気を吸った。
 どれだけそうしていただろうか。
 ようやく弥勒の唇が彼女から離れたとき、呼吸を整えることすらままならない珊瑚は、頬を紅潮させ、潤みきった瞳で法師を見つめていた。
「もし、本当におまえが、今、それを求めているなら──おれも同じものを求めていることを、おまえが許してくれるなら……」
 珊瑚を抱きしめていた腕を、片手はそのままに、片手で器用に褶を外す。
「あ……」
 次いで、彼女の帯を解き、軽く彼女の唇をついばんだ。
「このまま、おまえに酔いしれても?」
「……うん。許してあげる」
 吐息のようないらえに口づけでこたえ、弥勒は袈裟を解き、それを草の上に敷くと、そこに珊瑚をそっと横たえた。

 慈しむようにゆっくりと全身を愛撫され、次第に呼吸が荒くなる。
 濡れそぼった秘部を穿たれるのと同時に乳房を掴まれ、珊瑚はのけぞった。
 破瓜の痛みに顔をゆがめる珊瑚を、始めのうちこそ気遣っていた弥勒だったが、徐々に彼女が快楽に濡れた声を立て始めると、余裕がなくなってきたらしい。
 激しく珊瑚を突き上げ始めた。──

* * *

 ふと目覚めると、愛しい人の顔が間近にあった。
 横たわったまま、じっと自分を見つめていたらしい黒曜の瞳がふっと笑んだのを認め、珊瑚は消え入りたいような羞恥を覚えて、身をよじった。
「大丈夫……このまま……」
 低い声が甘くささやく。
 彼女は、自分が法師に包み込まれていることに気がついた。
 珊瑚の頭を乗せた弥勒の左腕が彼女の頭部を抱え込み、手甲に覆われた右腕が、彼女の腰から背をしっかりと抱き寄せている。
 二人の上には弥勒の緇衣が、ふぁさりと掛けられていた。
 けだるく、下肢がきしむように痛んだが、何よりも己を包む弥勒の腕があたたかくて、やさしくて、彼女は早鐘を打つ胸を抑え、声の主のほうへそろそろと赫い顔を上げた。
 これだけ密着して抱きしめられているのだから、わずかに目線をあげるだけで、黒曜石を思わせる彼の瞳とまともに視線が絡む。
 眼が合った、と思った瞬間、頬に熱さを感じた珊瑚はいたたまれず、さぞ赫く染まっているであろう顔を隠すように法師の胸に額を押し付けた。
「珊瑚、顔を見せてはくれんのか?」
「……やだ、恥ずかしい」
 両手で男の衣を握り、その胸に顔を押し当てた珊瑚だったが、弥勒の肌小袖の胸元も、やはりはだけたままであったため、意図せず法師の素肌に顔をすりよせる結果となった。
 顔を見せるのも恥ずかしいが、かといってこんなことをした自分も恥ずかしい。とにかく珊瑚は弥勒に背を向けてしまいたかったが、法師のほうにそれを許す気はさらさらないようだった。
 法師の肌に触れている頬から彼の熱が直接伝わってきて、珊瑚は気が遠くなりそうだった。
「あ……あの、法師、さま……?」
「なんだ?」
「恥ずかしい……んだけど……」
 消え入りそうな声で弱々しく訴える珊瑚に、弥勒はくすりと笑みを洩らすと、珊瑚の意を無視して彼女を抱く腕にさらに力を込めた。
「ほ、法師さま……」
 困惑しきった珊瑚の声があえかに響く。
「大丈夫だと言っただろう? もう何も考えるな」
 ようやく、心だけでなくその躰をも手に入れることができた。
 誰よりも愛しい娘をもう離すまいとばかりに、弥勒は抱きしめている彼女の頭にそっと口づけ、そのまま艶やかな黒髪に顔を埋めた。

 月が、位置を変えている。
 冴え凍るようなその輝きを漠然と瞳に映し、己の腕の中に抱き込んだままの娘に、弥勒はぽつりと言葉を洩らした。
「いつだったか、かごめさまに、パンドラという娘の話を聞いたことがある」
「ぱんどら?」
 珊瑚は少しこの体勢に慣れてきたらしい。聞きなれないその単語に、小さく首を傾げた。
「異国の神話に出てくる娘の名だそうだ。その娘は、神から筐をひとつ与えられ、決して開けてはならぬと命じられた」
「意地悪な神様だね。開けちゃいけないものを、わざわざ渡すなんてさ」
 心底不思議そうな珊瑚の言葉に、法師はくすりと笑みをこぼす。
「しかし、娘は好奇心を抑えられず、その筐の蓋を開けてしまったんだ」
「筐の中には……何が入ってたの……?」
「この世のあらゆる災禍が封じられていた。それまで、何の憂いも知らずにいた人間たちは、パンドラという一人の娘の手によって、悪疫や禍や──いろいろなものに苦しめられる定めを負った」
「……」
 珊瑚が息を呑むのが感じられた。
 弥勒の胸に、ただ添えられていた彼女の両手が、きゅっと彼の襯衣を掴む。
「その逸話から、かごめさまの国では、禁断のものを“パンドラの筐”、禁忌に触れることを“パンドラの筐を開ける”というらしい」
 それまで月を映していた瞳を腕の中の娘に向け、弥勒は月華を浴びる白い頬をそっと撫でた。
「私も同じだった。おまえという人間に出逢い、以来ずっと、この呪いが、それに触れてはならぬと常に私に警告を発していた」
「法師さま……」
「これ以上の苦しみをおまえに背負わせないために、そして、おまえを傷つけることで、私自身が傷つかぬように」
 法師の瞳に揺蕩う闇にも似た苦しげな色が、珊瑚の胸を締め付ける。
「法師さま、あたしは──!」
 戒めの数珠を巻き付けた右手が、やさしく珊瑚の唇を押さえ、その先の言葉を封じた。
「パンドラの話には続きがある」
 唇に触れている指が、そっとその輪郭をなぞる。
「この世の全ての禍が解き放たれたあと、ひとつだけ、その筐の中に残ったものがあった」
 数珠玉の触れ合う幽かなと、法師の低い声音が融和して、珊瑚を夢幻の世界へいざなうようだ。
「それは“希望”だった」
 ふ、と珊瑚の瞳が揺れた。
 唇をなぞっていた法師の指が頬へと滑り、ゆっくりと白磁の肌に添えられる。
「禁を犯したあと、最後に残ったのは希望だったという」
 大きく見張られた黒い瞳が自分を見つめている。そのあまりにも無垢な光に、自分が包み込んでいるはずの娘に、反対に自分が包み込まれているような錯覚に囚われ、弥勒は甘美な戸惑いに酔った。
「私も、己に課した禁忌を破ってしまった。しかし、後悔はしない。おまえの中に、おまえの向こうに、確かに希望の欠片を垣間見た気がする」
「法師さま──
 あたしの中に希望があるんじゃない。
 いつだってあたしに希望をくれるのは、法師さまだ──
 切なげに眉を寄せ、瞳を潤ませた珊瑚がしがみついてきた。そんな彼女の無意識の仕草がたまらなく愛おしくて、弥勒は頬に添えていた手で彼女の顔を上向けると、唇を合わせた。
 すぐに離すと、彼女が眼を閉じたので、再び唇を重ね合わせる。
「おまえに触れる──触れずにいる──どちらが正しかったのだろう。……おそらく、答えなどないのだろうがな」
「いいじゃないか、それでも」
 己に身を寄せる珊瑚を、法師はすがりつくように抱きしめた。今はこの腕から彼女を離したくない。
「……答えは、これから二人で探せばいいよ」

 だから

 ともに、生きよう──

〔了〕

2007.5.11.