Pieta 〜 ピエタ 〜

 仄暗い障子の向こうに浮かんだ黒い影は、次の瞬間、音もなく室内に入ってきた。
 影だけで、それが恋い慕うひとのものであることがすぐに解る。
 自らの頬の熱さと甘い胸の高鳴りを感じて、珊瑚は恥じらった。
 稀に一人部屋をあてがわれた夜、珊瑚のもとに法師が忍んでくることは、もう珍しいことではない。
 けれど、初心な娘はその都度、羞恥を覚え、緊張に身を固くする。
 どんな顔で彼を迎えていいのか判らず、横になったまま瞳を伏せて、彼の動きをそっと耳で窺う。
 大抵、弥勒は単だけを残してするすると衣を脱ぎ、微かに彼女の名をささやいて、臥所に滑り込んでくる。彼女の隣に身を横たえ、彼女の顔を両手で包み込み、唇を合わせる。
 一度目はやさしく。
 二度目は深く。
 それが、行為の始まりの合図であった。

 そんなある夜。
 横たわる珊瑚の傍らへ袈裟さえ解かずにひざまずいた弥勒は、流れるような動作で彼女の身体に掛けられた夜具を取り払った。
「法師、さま……?」
 いつもと違う彼の動きに戸惑う珊瑚をなだめるように、身をかがめて額に口づける。
 と同時に無防備な身体から帯を抜き取り、彼女をうつ伏せにした。
 長い髪を片側の肩にまとめて流し、表着と肌着の衿を併せて掴むと、彼女の両肩から皮をむくようにその衣を剥いだ。
「やっ……」
 一気に上半身を露にされ、珊瑚が小さく抗う。
 弥勒は身を起こそうとする彼女をそっと制し、その背中に顔をよせた。
 きめ細かな肌に残された消えない傷に、唇で触れた。
「あ──いや……」
 身をよじって逃れようとする珊瑚の腕を押さえ、まるで尊いものにでも触れるように、弥勒はゆっくりと彼女の傷をついばみ、唇で辿っていった。
「い……いや、だ。お願い……やめて、法師さま」
 羞恥だけではない複雑な感情に囚われ、動きを封じられた珊瑚は身をよじらせながらひたすら懇願する。
 その傷は彼女にとって特異なもの。
 ただ肌を合わせるのとは違って、過去も、罪も、全てを彼の前にさらけ出されているような感覚に慄き、ぎゅっと眼をつぶって身を固くした。
 それでも弥勒は彼女の背中への、傷への口づけをやめない。
 幾度も唇を滑らせたそこへ、今度は丹念に舌を這わせ始めた。
「法師さま……あっ」
 ひどく官能的なのに、ひどく切ない。
 じわりと熱くなる瞳の奥と、背中を漂う濡れた舌の感覚に珊瑚はじっと耐えた。
「法師さま、もう──
 呼吸が荒くなっていることを悟られないように小さく珊瑚がささやいたとき、彼女の腕を押さえていた片方の手がすっと白い肌を撫でた。
 舌は傷痕を舐め続けている。
 祈りを捧げるように。傷を慈しみ、癒しを与えるように。
 それは、あたかも神聖な儀式を行っているようだった。
 法師の左手がなめらかな肌の上を這い廻る。
 強い力で束縛されているわけでもないのに、珊瑚は震える躰を動かすことができなかった。乱れる息を殺し、洩れそうになる声をこらえ、ただ敷布を握りしめる。
 彼の唇が、傷痕の中心を強く吸い上げた。
「……くぅっ、はぁあっ」
「おまえは美しい。心も、顔も、魂も。そしてこの躰も」
 肌を彷徨っていた手が、すっと下へおりた。
「全てが美しい」
「あっ……」
 手は女らしい腰の曲線を越え、その下のまろやかな部分を覆った布の中へと滑り込んだ。
「んっ、やめっ──いや、法師さま!」
「本当に嫌か……?」
 なだらかな臀部を撫でさすっていた指先が、固く閉じ合わせた彼女の太腿の間へ吸い込まれる。
「やあっ! 駄目っ」
「ここはこんなに熱いが」
 執拗に撫していた傷から唇を離し、彼女の背にじっと頬を押し当てて、弥勒は眼を閉じた。
 熱い沼で蠢き続ける指の動きに耐え切れず、珊瑚は身をひねって法師へ眼を向け、弱々しく彼を睨んだ。
「あたしの……躰は法師さまのものかもしれないけど、この傷は、あたしだけのものだ」
 涙をためた瞳で、それでも強がる珊瑚の髪を、弥勒はもう片方の手でかきあげた。
 緋色の湯巻の後ろから差し込んでいた指を、前へと移動させる。
「……っ!」
 湧き上がる快感に抗うように、横臥した身を絶えず震わせる珊瑚の躰に法師の躰が覆いかぶさった。
「だからこそ、おまえの傷が愛しい」

 ──おまえが受けた、痛みや苦しみを象徴するものだから──

 彼女を構成する全てのものを愛している。
 その純粋な魂も。
 その純粋さゆえに負った暗い闇の部分や負の感情も。
 おまえの心の傷を、おれが癒してやれるなら。
 この傷におれの心を捧げたい。そう思うのは、ただの驕りか──
 今にもこぼれそうな涙を唇で吸い取り、法師はけぶるような微笑を娘に向けた。
「私にとって、おまえの躰は何よりも尊い」
「こ、の──生臭……が……っ──
「おまえの全てが、愛しい」
 苦しげに喘ぐ珊瑚の唇を、弥勒は己の唇でそっと塞いだ。
 蜜があふれ出す場所を嬲る指と、静かすぎる口づけが、ひどくアンバランスだった。

 そんなふうに、法師はたびたび娘の背中の傷に口づけた。
 その傷を慈しんだ。
 そうされることを恐れていた娘も、いつしか、彼の唇に癒しを求めるようになった己に気づく。
 そんなとき、彼女は快楽に流されたふうを装って、そっと涙を流した。
 まだ彼に甘え切ってはいけない。
 彼の傷はまだ消えてはいないのだから。


 ふと我に返る。
 曲霊を吸い、昏睡状態に陥った弥勒の姿を見つめる珊瑚の瞳が揺らめいた。
 そっと膝をついて、固く眼を閉じた弥勒の端整な顔を瞼に焼き付けた。

 あたしからは、まだあなたに何も捧げていない。
 この想いを一方通行で終わらせないで。

 祈るように唇を重ねる。

 ──愛しい。
 愛しい。愛しい。愛しい。
 あなたの負った傷が。
 あなたの全てが。

 あなたは、あたしの傷を愛してくれた。
 だから。

 死なないで。

 法師さま……、死なないで。

〔了〕

2008.4.20.