誘われて
「試しに作ってみたんだけど、なかなかの出来だったから。みんなにも味見してもらいたくて」
そう言って、かごめは持参したポットから紙コップにスープを注いで弥勒と珊瑚と七宝に配った。
「あ、でも、ちょっと辛いから、犬夜叉と雲母はやめておいたほうがいいかも」
「けっ、食えねえもんを持ってくんなよ」
「代わりにこっち、食べてみて?」
犬夜叉たち一行は、今朝、現代から戻ってきたかごめに手作り弁当を振る舞われていた。
かごめから渡されたスープを味わうように飲む珊瑚の隣、自身も紙コップを手渡された弥勒は、ふと、珊瑚が紙コップを口につけたまま自分を見ていることに気づいた。
どきりと鼓動が跳ね、弥勒は素早く周囲を確認する。
かごめは犬夜叉にお勧めのメニューを取り分け、犬夜叉と七宝はそちらのほうを覗き込んでいる。
「……」
紙コップを口許に持っていき、弥勒はもう一度珊瑚を見た。
彼を見ている。じっと。潤んだ瞳で。
思わず動きをとめて斜めに彼女の視線を見返すと、珊瑚は瞳を伏せ、その睫毛が瞬いたかと思うと、また弥勒をじっと見つめた。
(何か伝えようとしている?)
唇から紙コップを離した珊瑚はもう一度瞳を伏せ、視線を落としてから弥勒を見上げた。
瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
口に含んでいたスープを飲み込み、彼を見つめたまま、ぺろ、と彼女は舌先で唇を舐めた。
(! これは――)
法師の鼓動が速くなった。
潤んだ瞳。まばたきでの合図。少し紅潮した頬。唇を舐める仕草。
(誘っている……!)
危うく紙コップを取り落とすところだった。
今も、切なそうにつらそうに、珊瑚は自分を見つめている。
弥勒は眩暈がしそうだった。
つまり、珊瑚の言わんとすることは。
“今夜、抱かれたい”
(な、何て大胆な)
最近ようやく男女の関係になったとはいえ、肌を合わせた回数は片手の指で足りるほど。まさか珊瑚のほうから誘ってくるとは思わず、この事実は大いに弥勒を惑わせた。
が、無論、断る理由はない。
横目で彼女の様子を窺いながら、微かな動揺と昂揚感を紛らわせようと、自分のコップに口をつけた次の瞬間、弥勒は盛大にむせた。
ごほっごほっと咳き込む弥勒に慌てたように、かごめがタオルを差し出した。
「大丈夫? 弥勒さま」
「慌てて飲むからじゃ」
珊瑚が身を寄せて背中をさすってくれる。その感触にすら期待感が高まる。
弥勒は夜を待った。
その夜、目についた破れ寺に泊まることにした一行は、思い思いの姿勢で眠りに就いた。
弥勒は眠ったふりをして、珊瑚が起き出すのを待っていた。
時間の経つのが嫌に遅く感じられる。
焦れて、自分から珊瑚を起こそうかとそわそわし始めた頃、珊瑚が身を起こした。
弥勒に声をかけることなく、寺を出ていく。
(当然か。別々に抜け出すための合図だからな)
少し待ってから、弥勒はそっと起き上がって珊瑚のあとを追った。
珊瑚はすたすたと夜道を歩いていく。
その後ろ姿を追いかけて、もう声をかけてもいいだろうと彼女の肩に手を伸ばしたとき、不意に珊瑚が振り向いた。
「なあに? 法師さま」
「えっ? 何って……」
弥勒は行き場を失った手を泳がせる。
「なんか気配を感じると思ったら。どこへ行くの?」
「おまえこそ、どこまで行く気だったんです? あまり近くては困るが、寺から離れ過ぎてもまずいだろう」
闇の中、珊瑚は眼をぱちくりさせた。
「あの、あたしは水を汲みに……」
雲が流れ、月の光が洩れてくると、彼女が持っているものが見て取れた。
「竹筒と、かごめさまの“ぺっとぼとる”?」
珊瑚は少し表情を和らげた。
「あたしと七宝で残りの水をほとんど飲んでしまったから。汲んでおかなければならないの忘れてて」
「そういえば、石清水が湧いていたな。では、その辺りでしましょう」
「する?」
「そろそろ限界です」
珊瑚の腕を掴み、湧き水のあるところまで移動するや否や、法師は彼女を抱き寄せた。
「法師さまっ……?」
慌てたような声が聞こえるが、それは弥勒を煽る効果しかなかった。彼は片手を珊瑚の腰から下へ伸ばす。
「ちょっ、ちょっと」
「おまえから誘っておいて、拒むんですか」
「いつ、あたしが……」
戸惑ったような珊瑚の声。
「昼すぎ、みなで食事をしていたときに。私をじっと見つめていた」
「法師さまを見つめて?」
弥勒は珊瑚の手から竹筒とペットボトルを奪うと、錫杖と一緒にそれらを地に置いた。
「違う、法師さま、あれはそういう意味じゃなくて」
「あんな色っぽい眼で誘っておいて、今さら違うなどと」
「本当に違うんだって。あれは、すーぷが辛くて」
弥勒の動きがとまった。
「すーぷ?」
「そう、かごめちゃんのすーぷ。法師さまだって、あれが辛くて、咳き込んだんでしょ?」
そう言われればそうだったのかもしれないが、味なんて覚えていない。
珊瑚のことで頭がいっぱいで。
「辛いから、気をつけて飲んでねって、そういう意味」
「え……」
表情の選択に戸惑い、弥勒は呆然と珊瑚を見遣る。
――つまり、おれは勘違いに胸を躍らせていたのか?――
不意に弥勒の手が珊瑚の両肩を掴んだ。
がっかりしたのと恥ずかしいのと、照れ隠しもあっただろう、彼は彼女の躰を手近な木の幹に押しつけた。
「痛っ」
「どちらにせよ、おまえがおれを煽ったのは事実だ」
「煽ってない!」
弥勒は彼女の首筋に唇を這わせた。
「待って、心の準備――」
「そんなものはいらん」
片手で珊瑚の顎を掴み、有無を言わせず口づける。
小さく彼女が呻いたが、彼は構わず口づけを続け、彼女の閉じた唇を誘うように舐めた。
思わず開いた珊瑚の口中に舌を侵入させる。
ここまでくると、珊瑚も、もう抵抗しなかった。
「……誰か来たら、どうするの?」
「来ません」
「でも……」
不安げな珊瑚に、法師は大股に歩いて錫杖を地面に突き立てた。そして、反対側の珊瑚が背を預ける木に懐から取り出した破魔札を貼る。
「これで、妖気を持つ者は入ってこれません」
「結界って、そんなに簡単に張れるもの? でも、かごめちゃんなら入ってこれる」
「かごめさまは来ませんよ」
「どうしてそう言い切れるの?」
弥勒はちょっと笑った。
「かごめさまは、今朝、戻ってきたんですよ。おそらく、夕べは徹夜で勉強していたはずです。今夜は妖怪が襲ってでもこない限り、起きないでしょう」
珊瑚はほっとしたように弥勒に手を伸ばした。
「だけど、結界ってのは嘘だよね。念を込めなくていいの?」
「そのときになってから念じます」
再び口づけを交わしながら、弥勒の手が珊瑚の肢体を性急に這った。
「ん……」
珊瑚の唇からため息が洩れ、褶を外した弥勒の手が、彼女の小袖の裾を割った。ふらついた珊瑚の背を木の幹が支える。
すぐに法師の指が湿り気を探り当てた。
「……てますよ」
「いや、言わないで」
掠れた声でささやき、誤魔化すように珊瑚は弥勒にすがりつく。
「このまま、いいか?」
指を遊ばせる弥勒に、耐えるだけで精一杯の珊瑚は驚いて眼を見張った。
「立ったまま? って、無理! 絶対無理!」
今にも足の力が抜けてしまいそうで、珊瑚は必死に弥勒に掴まり、首を振る。
「では、座って」
「え?」
弥勒は珊瑚のために袈裟を解き、その場に敷いた。
「なんか、慣れてるね」
「そうですか? 気のせいでしょう」
法師が下帯だけ取るのをぼんやりと見つめていた珊瑚は、はっとして視線を逸らせた。そして、弥勒に導かれるまま、小袖の裾を乱し、彼の膝にまたがった。
「法師さま……やっぱり無理。座るのも無理」
弥勒の肩に両手で掴まり、躰を震わせて彼を見つめる珊瑚の視線を、弥勒はたぐりよせるように見つめ返した。
「その眼だ。やはり、誘ってる」
潤んだ瞳。震えるようなまばたき。紅潮した頬。
珊瑚がちろりと己の唇を舐めたのを見て、我慢できずに弥勒は彼女を引き寄せ、唇を重ねた。
口づけがだんだん激しくなっていき、珊瑚は甘い陶酔に埋没して、法師の手が導くままに躰を動かす。
「んん――」
向かい合って、彼を受け入れ、吐息のように呻くと、彼も満足したようにため息をこぼした。
「動きますよ」
「待って。もう少し、このまま」
抱き合い、唇を重ね、求め合う。
何度求めても、この渇きは消えない。
彼女の全てを奪いつくそうとするように、弥勒が珊瑚を荒々しく突き上げると、大きく身をのけ反らせ、彼女は悲鳴を洩らした。
「ほう、しさま」
艶めかしい声が耳を刺激する。
彼の首にぎゅっとしがみつく彼女が愛しくて、なおも弥勒は激しく珊瑚を揺さぶり続けた。
一刻ほど二人きりで過ごし、弥勒と珊瑚がこそこそと仲間の眠る破れ寺へと戻ると、気配に気づいた犬夜叉が振り向いた。
「水を汲みに行ってたのか? おう、弥勒も一緒か」
二人で抜け出したことを知られてぎくりとする珊瑚だが、犬夜叉はどこか様子が変だった。
「犬夜叉、おまえ、焦点が定まってないですよ?」
弥勒が言う。
「かごめの“激辛すーぷ”が少し残っててよ。ちょっと味が気になったんで、飲んじまった。う゛ー、気持ちわりい。寝る」
弥勒と珊瑚は顔を見合わせる。
調子の悪い犬夜叉は、二人が一緒だった意味も、一刻ばかりこの場を留守にしたことも気づいていないようだ。
弥勒がそっと珊瑚にささやく。
「かごめさまの激辛すーぷに感謝ですな」
「うん、まあ、結果的にね」
水を汲んだ容器を荷に戻し、苦笑して、珊瑚は眠るために適当な場所に座った。隣に弥勒が腰を下ろす。
「今宵は悪かったな、珊瑚。私の思い違いのせいで」
「ううん。法師さまが誘ってくれるのは……嬉しい」
「珊瑚から誘ってもらうのは、夢の夢、か」
頬を赤らめて恥ずかしそうに睫毛を伏せる珊瑚を見遣り、弥勒は微笑した。
「ま、いつか誘ってくれるまで気長に待ちますよ」
天井を見上げてつぶやく。
そして、瞼を閉じた。
〔了〕
2010.10.31.