小夜更け方

 本懐を遂げ、弥勒と珊瑚は夫婦になった。
 そして、楓の村に身を落ち着けて、新居を構えた。
 平和な日々は緩やかに過ぎる。
 だが、そんなある日、七宝が妖怪の毒に中り、寝込んでしまった。

 つい先日、七宝は狐妖怪の仲間たちに会いに行き、どこかの山中で仲間たちと妖怪退治をしたと自慢げに語っていた。しかし、気づかぬうちにその妖怪の瘴気を吸い込んでいたらしい。
 遅効性の毒が含まれていたらしく、不調を訴えて彼が倒れたのは、楓の村へ戻ってからのことだった。
 それから数日。
 法師宅の居間の隅に延べられた夜具の中に、小さな妖狐はちょこんと横になっていた。
 倒れてからずっと、法師の家で養生し、ここ何日か寝込んでいたおかげで、わりあい元気そうだ。
 毎日、珊瑚に解毒作用のある薬草を煎じてもらっている。
「あんまり無理するんじゃないよ、七宝」
 珊瑚が枕元に薬湯を持ってくると、仔狐は寝床に起き上がり、面目なさそうにそれを受け取った。
「解っておる。今回はちょっと油断しただけじゃ」
 苦い薬湯を一気に飲み干し、ほっと息を洩らす。
「……じゃが、すまんのう。すっかり弥勒と珊瑚の世話になってしもうた」
「そんなしおらしいことを言う玉かよ」
 居間には犬夜叉もいる。
「薬を飲んで、しっかり食って、早く元気になれ。おまえがおとなしいと、どうも調子が狂う」
 最初は七宝の様子が気になって、毎日見舞いに訪れていた犬夜叉だったが、いつの間にか、彼自身も七宝と一緒に法師宅に泊まり込む形となっていた。
 彼は弥勒と一緒に妖怪退治の仕事を請け負っている。
 仕事がないときは、珊瑚の水汲みや薪割りを手伝ったり、夜は弥勒と酒を酌み交わしたり、皆で旅をしていた頃のように和気あいあいと過ごしていた。
 かごめの不在が際立つけれど、気心の知れた者同士、この顔触れでの毎日は、それなりに居心地がよく、楽しいものだった。
 そのようなわけで、七宝はほぼ元通りに回復したが、この居心地のよさに甘えるように、ぐずぐずとこの家にとどまっていた。

 新婚夫婦二人の所帯だが、この家には夜具が四組ある。
 琥珀が滞在するときのため、また、犬夜叉や七宝がいつ泊まりに来てもいいように。もし、犬夜叉と七宝と琥珀が一度に滞在することがあれば、弥勒と珊瑚は一組の夜具を二人で使うつもりだ。
 今は弥勒と珊瑚の二人だけだが、いずれ子供が生まれ、家族は増えるだろうから、どちらにしても無駄になることはない。
 普段は、夫婦は二組の夜具をくっつけて、ひとつの寝床にして寝ていた。
 固く抱き合って眠ることもあれば、そっと寄り添って寝息を立てていたり、手を繋いでいたり、また、背中合わせであっても、とにかく、互いの息吹が感じられる距離で夜を過ごしたいというのが、二人の共通の想いだった。
 この日も、いつものように四人でにぎやかに夕餉を終え、床に就くために犬夜叉と七宝は居間に夜具を延べ、弥勒と珊瑚は自分たちの寝間に引き上げた。
 しかし、弥勒の表情はあまり芳しくない。
 寝間に延べられた二組の夜具を見て、彼の表情はさらに複雑なものになった。
「……珊瑚」
「んー?」
 手燭を置いた珊瑚は、新妻らしく先に夫の袈裟を解き、法衣を脱がせ、それらをたたんで枕元に置いた。それから、自分も褶を外して小袖を脱ぎ、肌小袖姿で夜具の中に身を横たえる。
「おやすみ、法師さま。灯り、消してね」
 文机の上に置かれた手燭の灯りが揺れている。
「待ちなさい、珊瑚。ちょっと納得いきません」
「何が?」
 彼女は、白小袖姿で取り残されたように突っ立っている夫を見上げた。
「やっと二人きりになったのに、すぐに寝るんですか?」
「だって、法師さま、最近寝不足だろ? 早く休んだほうがいいよ。ここ数日、食事のときも黙っていることが多いし、なんか疲れてない?」
 弥勒はそれこそ疲れたようなため息を、腹の底から吐き出した。
「疲れているわけではありません。どうして私が寝不足なのか、珊瑚には何か心当たりがありませんか?」
「……さあ?」
 珊瑚は心配そうに首をかしげて、軽く眉をひそめた。
 何の他意もないその仕草と表情が、逆に法師をむっとさせる。
「それから、これは何ですか」
「?」
 弥勒の指が何を指し示しているのか本気で解らず、珊瑚は困惑したような表情を浮かべた。
「床が──何?」
「どうして夜具を離して延べるんです。それも、毎晩少しずつ距離が離れていっているように見えるのだが」
 珊瑚は少しはにかんだように、夜具の中で衾を顎まで引き上げた。
「……だって、やっぱり恥ずかしいじゃないか。気分的なものだけど、同じ屋根の下に犬夜叉も七宝もいるのに、法師さまと同じ寝床で寝るなんてさ」
 声をひそめてそんなことを言う、珊瑚の仕草が可愛すぎて腹が立つ。
「部屋は別々でしょう? それに、犬夜叉も七宝も、私たちが夫婦であることは知っていますよ」
「だから、気分の問題」
 はにかむ珊瑚はやはり可愛い。煽っているようにしか思えない。
 弥勒は大きなため息をついた。
「二、三日なら我慢しますよ? 誰かが怪我をしたり、病気になったり、緊急事態なら仕方ありません。だが、看病のために七宝を引き取って、その上、犬夜叉までうちに転がり込んできて、いったい何日経っていると思うんです」
「……法師さまだって、毎日楽しそうにしてただろう?」
「そりゃあ、楽しいですよ。苦楽をともに闘ってきた仲間なんですから。だが、その間、おまえとの楽しみが完全にお預けではないか」
 次第に不機嫌さを隠さなくなった夫に、珊瑚は身を起こして、なだめるように言葉を選んだ。
「七宝が全快するまでは、みんなでここで暮らしたっていいじゃないか。この先、ずっとじゃないんだし」
「どう見ても、七宝はとっくに全快してますよ。おまえも犬夜叉も、解ってて何も言わないのだろう?」
 出し抜けに法師から眼を逸らした珊瑚には、明らかに思い当たる節があるらしい。
 七宝の体調管理や、薬の調合をしているのは彼女なのだ。
 少し迷って、彼女は遠慮がちに口を開いた。
「七宝は、きっと人恋しいんだよ。一人前の妖怪になるために頑張っているけど、まだ子供なんだし。気を許せる仲間と楽しく過ごす時間があってもいいじゃないか」
「そういうことを言っているのではない」
 弥勒は語調を荒げ、いきなり手燭の灯りを吹き消すと、薄闇の中、強引に珊瑚の寝床に入ってきた。
「そろそろ我慢の限界です」
「ま、待って、法師さま──
「もう十日以上、おまえの肌に触れていない」
 荒々しく組み敷かれ、珊瑚は小さな声を上げた。
 犬夜叉も七宝も同じ家の中にいるというのに、こんな行為に及ぶなど、彼女の許容の範疇ではない。
 法師の手が性急に珊瑚を求める。
 単の上から乳房を揉みしだく手が、すぐに衣の中へと侵入してきた。
「あっ……! やっ!」
 途切れ途切れに唇が重なる。
 声は全て弥勒の唇に飲み込まれ、あっという間に肌小袖の衿や裾をはだけられた。
 混乱の中で珊瑚は焦った。
 聴覚が優れ、気配にも敏感な犬夜叉に気づかれないはずがない。
「嫌、やめて。絶対、気づかれる」
「気づかれたら、そのときはそのときだ。私がどうとでも誤魔化します。珊瑚は声だけ抑えていればいい」
 法師の唇がふくらみをじかに這う。
 呼吸すら苦しげな珊瑚の口からは、絶え間なく甘い吐息がこぼれ落ちた。
「それより、私と触れ合えなくて寂しかったと、おまえからは言ってはくれんのか?」
「そっ、そんなことより、今は──あっ……!」
「おまえだって抱かれたかったのだろう? ほら、もう、こんなに」
 法師の手に足のあわいを探られ、珊瑚の躰が大きく跳ねた。
「駄目、法師さま──! い、いや、やめ……!」
「仮に何か聞こえたところで、察してくれますよ」
「……っ!」
 その瞬間、珊瑚は弥勒の身体をあらん限りの力で突き飛ばし、身を起こして、思いきり彼の頬を引っぱたいていた。
「法師さまの馬鹿っ!」
「……」
 法師は唖然としている。
 潤んだ瞳で屹と彼を睨みつける珊瑚の表情は激しい。
 そして、息を呑むほど美しい。
 夫婦になってから、彼が珊瑚のこんな本気の平手打ちを受けたのは、初めてのことだった。


 翌朝、家の中には重苦しい空気が沈殿していた。
 朝餉の席では誰も口を利かず、器の音だけが、やけに空しく響いていた。
 弥勒は昨晩に輪をかけて機嫌が悪く、珊瑚に至っては、明らかに怒っていると判る表情で、視線を上げようとすらしない。
「……あー、七宝。おれたちはそろそろ、楓ばばあのところに戻るとするか」
「そっ、そうじゃの。楓おばばも、いつまでもおらたちが帰らんのでは寂しかろう。おらもすっかりよくなった。弥勒と珊瑚のおかげじゃ」
 昨夜の夫婦のやりとりの、「法師さまの馬鹿っ!」の部分だけは、さすがに犬夜叉にも七宝にもはっきりと聞こえていたようだ。
 犬も食わない何とやらに巻き込まれてはたまらないと、ぎこちなく二人は礼を述べ、そそくさと帰っていった。

 夜が更ける。
 二人きりの夜を久しぶりに迎えるわけだが、珊瑚は未だ、怒ったままだ。
 弥勒が寝間へ入ると、二組の夜具は思いきり離して延べられていた。
 珊瑚はすでに褥に横たわり、こちらに背を向けて衾をかぶっている。
 法師の口から、また大きなため息がこぼれた。
「珊瑚」
 手燭の灯りを消し、弥勒はそれを文机の上に置いた。
「私が悪かった。もう、おまえが嫌がることはしないと約束する」
「……」
「だから、もう許してくれんか。私の気持ちも解るだろう?」
「……」
 法師に背を向けたまま、珊瑚は無言を押し通す。だが、そんな彼女の褥に、彼はごく自然に滑り込んだ。
「……おまえに触れたい」
 甘くささやきながら、愛しい妻を後ろから抱きしめる。
 拒絶される気配はなかった。
 弥勒は手探りで彼女の帯を解き、やっと触れることを許された肌を、思うままにまさぐった。
 珊瑚の息が次第に乱れる。
「法師さま……」
「なんだ?」
「……ごめん」
 彼女は夫のほうへと身を向けた。
 その愛しい唇に唇を重ね、深く口づけを交わし、弥勒は陶然と彼女の胸に顔をうずめた。
「では、お互いさまということで。今宵はおまえを離しません」
 はにかむように、珊瑚は弥勒の頭を抱きしめた。
「じゃあ、朝まで抱きしめていてくれる?」
「ああ。今宵は寝かせん」
「えっ? そっちの意味じゃなく……!」
 だが、珊瑚はもう、言葉を発することができなかった。
 十数日ぶりに、愛しい人の腕に抱かれている。
 彼女の意識は、そのまま濃い闇に、彼の熱に、甘く溶かされていった。

〔了〕

2015.3.6.