正眼

 いつもあの娘を見ている。

 告白前は盗み見、
 婚約後は憧れるように、
 肌を合わせるようになってからは焦がれるように、
 ──珊瑚を見ている。

 怪我をした足を引きずってやってくるその娘の姿に気づき、弥勒は思わず足をとめた。
「珊瑚」
 何をしているのか。
 負傷した珊瑚と彼女の護衛役の弥勒をこの村に残し、犬夜叉たちはこの先の山へ、奈落の手掛かりを求めて足を延ばしている。
(おとなしく休んでいろと言ったのに)
 雲母を犬夜叉たちに同行させたので彼女は一人だった。
「あれは退治屋さんではありませんか?」
 一緒にいる若者に指摘され、弥勒はうやむやにうなずく。
 昨日、この村で妖怪退治をした珊瑚は、足を負傷し、大事をとってこの村の名主の家の離れを借りて休むことになった。
 それはいいのだが、昨日から何かと彼女の世話を焼こうとする名主の息子を珊瑚から遠ざけるため、法師はわざわざ彼に頼んで村を案内してもらっていたのだ。
 そんなところに自分から来るなと弥勒は言いたい。
 珊瑚は少しびっこを引きながら、弥勒と、彼と一緒にいる名主の息子のもとへとたどり着いた。
「法師さま──
 弥勒のほうへ手を伸ばそうとしたそのとき、平衡を崩し、よろめいた。
 あっと思った瞬間、向こうへ傾いだ珊瑚の身体は、名主の息子に抱きとめられていた。
「大丈夫ですか、退治屋さん」
「あ、ありがとう。平気」
 珊瑚は微かに頬を染めて体勢を立て直そうとしたが、若者は彼女を抱きとめた手を離そうとはせず、逆に彼女の肩を抱き寄せた。
「怪我をしているのに無茶ですよ。手を貸しますから、離れへ戻りましょう」
「本当に大丈夫だから、手、あの」
 困ったように彼女が身をよじらせても、若者は笑うだけだった。
「歩けませんか。負ぶってあげましょう」
 恥じらう珊瑚を見て、そんなことまで言い出した。
 弥勒の眼がわずかに細められる。
「……触るな」
 法師の口から凍るようなひと言が放たれた刹那、若者は身を硬直させた。
「私が運びます」
 一見穏やかな法師が放った有無を言わせぬ響きに、威圧されたように彼は押し黙ってしまった。
 法師は珊瑚に錫杖を持たせると、彼女の身体を軽々と横抱きに抱き上げた。
「ごめん、法師さま」
 恥ずかしそうに眼を伏せる娘を抱く手に必要以上に力を込め、弥勒は若者を冷たく見遣る。
「夕方まで珊瑚をゆっくり休ませたいので、離れには来られませんように」
 そうして、悠然と歩き出した。

「何やってるんですか、おまえは」
 若者の姿が見えなくなると、すぐに弥勒は抱いている娘を問いつめた。
「ごめん。法師さまの姿が急に見えなくなったから。……つまり、その、いつもの悪い癖かと思って」
 弥勒は軽くため息をついた。
「おなごを口説きに行ったんじゃありませんよ。村に妖怪の気配がないか見廻っていただけです」
「ほんと?」
「それより、あの男には近づくな」
「あの男って、名主様の息子さん?」
 怪訝そうに問い返す珊瑚の反応がもどかしく、法師は苛々と歩を進めた。
「あからさまにおまえを口説こうとしている。もっと警戒しなさい」
「だって、あたしには法師さまが……」
「おまえと私が恋仲だろうが、ああいう手合いは、後腐れなく一夜限りの関係が持てればそれでいいんですよ。おまえは恋愛ごとに疎いから、はっきり撥ね付けることも、適当にあしらうこともできないでしょう」
 信用されていないと珊瑚はむっとしたが、現に今も、法師の助け舟がなければ、あの男に負ぶわれて帰る破目になっていただろう。
 いたたまれなくて眉をひそめたら、彼女を抱く腕に力が込められた。
 珊瑚はそっと、法衣の肩へと頭をもたせかけた。

* * *

 名主の屋敷の離れに戻ってきた二人は、なんとなく無口だった。
 怪我をした珊瑚のために延べられたままになっている夜具の上に、弥勒は彼女を下ろした。
「法師さま、あの」
 仰向けに寝かされた珊瑚は続く沈黙が息苦しくなり、身を起こそうとして、はっと身をすくませた。
 飢えた獣のような視線を感じる。
(……)
 たまに、彼の視線を意識して胸をときめかせることはあっても、これほどあからさまな感情を含んだ視線は初めてだ。
 顔を上げたとき、そこにどんな弥勒が待っているのか想像すると少し怖い。
 胸の鼓動だけが高まってゆく。
「傷を診ましょうか」
 だが、法師の声はあくまでも静かだった。
「あの……いいよ。法師さまを捜しに行く前、自分で包帯かえたし」
「そうか」
 不意に、怪我をしているほうの足首を持ち上げられた。
「あっ」
 突然の弥勒の行為に、褥に横たわる珊瑚は緊張に身を固くする。
 脚絆はしていない。
 法師の掌が、患部をさけて持ち上げた足首から膝までをなぞると、小袖の裾が、褶ごと膝までたくし上げられた。
 ふくらはぎの包帯の白さが目立つ。
「やめて、法師さま。何を──
 珊瑚の声など聞こえないふうに、法師はそっと、彼女の爪先に口づけた。
「あ……」
「これは取ります」
 呆然とする珊瑚の返事を待たず、弥勒は彼女の褶を外した。そして、帯に手をかけようとする。
 珊瑚は帯を解こうとした彼の手を押さえ、かすれた声でささやいた。
「嫌。まだ日が高い」
「つれないな」
 ようやく珊瑚の視線を正面から受け止めた弥勒の瞳は、妖しいつやを含んでいて、その眼差しだけで彼女は籠絡されそうだった。
「そんな眼で見ないで」
「“そんな眼”?」
「おかしくなる」
 たまらなくなった珊瑚は横たわったまま瞳を閉じ、瞼の上を腕で覆った。
「珊瑚──
 しゅっと衣擦れの音がして、珊瑚の胴から帯が抜かれた。
「いや」
 身をよじってうつ伏せになろうとする珊瑚の動きを弥勒は素早く制する。腰を押さえられ、腕に隠れていた珊瑚の潤んだ瞳がそっと弥勒を映した。
「名主の息子だけではない」
 日頃の不満をぶちまけるように、彼らしくもなく法師は低い声で恨み言を並べた。
「昨日すれ違った男も、この前、道を訊いてきた男も、同じ宿に泊まった男も、みな、おまえを見つめていた」
「ひどい」
 さすがの珊瑚も憮然とする。
「法師さまのほうこそ、ちょっと綺麗な人がいると、すぐそっちのほうへ行っちゃうくせに……って、きゃあ!」
 再び足を持ち上げられ、足の甲に舌を這わされ、珊瑚は悲鳴を上げた。
「やめて、法師さま。変な気持ちになっちゃう」
「変とはどんな?」
「意地悪」
 怯えたように震える珊瑚を、弥勒はじっと見つめた。
 いつもこの娘を見ている。
 いつだって、焦がれるように。
 ひとつだけ確信しているのは、娘もまた彼だけを見ていることだ。
「あっ……!」
 娘の反応を楽しむように、彼は彼女の足首を痕がつくほど強く吸った。
 そして、ゆっくりと唇を足首から膝へ、膝から太腿へと移動させていく。
 彼の唇が与える、もどかしいほどの愛撫に、珊瑚は身を震わせながらじっと耐えていた。
「おまえが思っているより、ずっと私はおまえに飢えているんですよ?」
 彼が言ったその言葉の意味を理解しようとする暇もなく、躰に伸しかかられ、小袖を剥ぎ取られた。
 情欲など感じさせない淡々とした声。
 なのに艶めいた法師の様子が、何故か無性に悔しかった。
「……法師さまが、欲しい」
 それは子供が月を欲しがるような、単純な所有欲で洩らした言葉だったかもしれない。
 だが、珊瑚が求めるその月は、“男”という実体を持っていた。
「初めて、私を欲しいと言ったな」
 娘に覆いかぶさる男は、娘の肌小袖の衿元に手を忍ばせ、なだらかな肩の線を撫で、焦らすようにゆっくりと彼女の唇に自らの唇を重ねた。
「もっと欲しがってくれ」
 低くささやき、再び口づける。今度は貪るように。
 そして、激しく求めた。


 乱れた肌小袖をまとっただけの姿で、褥の上に、弥勒と珊瑚はけだるげに横たわっていた。
「怪我をしているというのに、すまなかったな」
「ううん」
 彼女の乱れた髪を法師の長い指が梳いた。
「言いわけをするつもりではないが、ここのところ、ずっと触れ合えなくて寂しく思っていた」
「普通にそう言ってくれればよかったのに。名主様の息子さんがどうとか言わずに」
「名主の息子が油断がならないってことは事実ですよ」
 法師はやや不機嫌そうに天井を向いた。
「おまえにはあまり私に触れたいという欲はないのだな」
「そ、そんなこと」
 思わずこぼれた言葉を聞いて、興味を引かれたように弥勒は珊瑚の瞳をじっと覗き込んだ。
「“そんなこと”……何です?」
「法師さま」
 珊瑚はおずおずと上目遣いに弥勒を見た。
「……口づけしてもいい?」
 控えめな意思表示に、弥勒はくすりと小さく笑う。
「いつでも、したいときにしていいんですよ」
 はにかんだように表情を緩め、そろそろと弥勒に身を寄せて、珊瑚は自分から唇を差し出そうとした。
 伏せていた瞳をそっと上げると、彼の視線とぶつかった。
 あるときはやさしい春風のように、あるときは飢えた獣のように、じっと彼女を見つめる男は、無に近い穏やかな表情を崩しはしないものの、語るような瞳をしている。

 瞼を閉じて、珊瑚はただ彼の唇を求めた。

〔了〕

2011.3.6.