酔芙蓉

 ふっと意識を引き戻された。
 幻覚のような混沌とした世界から現実に引き戻された弥勒の眼に最初に映ったのは、あたたかく揺れる囲炉裏の火。
 あやふやに顔を上げると、仄かに笑みを浮かべた最愛の妻がこちらを見ていた。
「法師さまがうたた寝なんて珍しいね。もう、床を取る?」
「……眠っていたのか……どれくらい寝ていた?」
 無防備な寝顔を妻に見られた照れ隠しのように、弥勒は片手で前髪をかきあげた。
「ほんのちょっと。あたしがお酒の用意をしてた間だから」
 見ると、夕餉を終えた膳はすでに片付けられ、傍らには盆にのせた徳利と盃がある。
「夢でも見てた?」
「さて、な」
 弥勒が盃を手に取ると、ゆるやかに、慣れた動作で珊瑚は彼の盃に徳利の酒を注ぐ。
 冷たい酒をひとくち含み、弥勒はじっと妻の顔を見つめた。
 囲炉裏の残り火に照らされた彼女の表情は、やわらかく、美しく、穏やかだ。
 出逢った当初の剣呑さは跡形もない。
「なに?」
 小首を傾げて可憐に問う。
「いや」
 弥勒は盃を傾け、喉に酒を流し込んだ。
 彼女が痛ましい運命に耐えていたあの頃、自分はどのような顔で彼女に接していただろう。
 いつから、彼女の存在が己の中で重みを増していったのだろう。
「珊瑚、幸せか?」
 ふと、言葉がこぼれた。
「うん。幸せだよ、法師さま」
 盃に酒をつぎ、顔を上げた珊瑚の表情が清楚な花のように綻ぶ。
 幸福に満ちた女の顔がそこにある。
「私もだ。闘いが終わり、風穴が消え、おまえを娶り……」
 弥勒の言葉がふっと途切れた。
 欲してやまなかった娘と夫婦となって、幾日が過ぎただろうか。
 夜ごと愛してもまだ足りないと思う自分は何と貪欲なのだろう。
「時々……これは夢ではないのかと思う」
 何も穿たれてはいない右手に視線が落ちた。
「今あるこの幸せが、夢でなければいいと」
「夢じゃないよ、法師さま」
 ことりと徳利を盆に置き、珊瑚の白い手が彼の右手をそっと包む。
「夢になんかしてたまるもんか」
 強気な口調は以前のままだが、そこにはしっとりとした匂やかさがあった。
 女になったからだと──自分が彼女をそう変えたのだと、弥勒はわずかに口角を上げた。
「おまえも少し呑まんか?」
 空になった盃に自ら酒をつぎ、弥勒は珊瑚に手渡した。
「じゃあ、少し」
 受け取った盃に唇をつけた珊瑚が透明な液体をこくりと呑み込む。
「美味しい」
 ふわ、と微笑む美しさこそ、夢ではないのかと思うほどで──弥勒は息をつめて彼女を見つめた。
 彼女はそれほど酒に強くない。
 他愛ない会話とともにはいを重ねるごとに、火影を受ける珊瑚の目許がほんのりと色づいてきた。
 目尻が薄紅を帯び、頬も仄かに朱をさしたように紅い。
(美しい……)
 まさに芙蓉のかんばせといえた。
「どうしたの、法師さま。もう酔っちゃった?」
 急に会話が途絶え、法師が自分に見惚れているとは気づかない珊瑚は、悪戯っぽく彼の瞳を見つめ返す。
 これくらいの酒で彼が酔うはずがないと解っているから、そんな冗談も言える。
 だが、軽口を返してくるだろうと思われた彼は、盃を持ったまま止まっている珊瑚の手に己の手を添え、ぐいと自分のほうへ引き寄せた。
「えっ、なに……?」
 弥勒は珊瑚の手にある盃の酒を一気にあおった。
「法師さま、あたし、まだ呑め……」

 から、ん──

「る、よ……」
 床に落ちた盃が乾いた音をたてた。
 と同時に、酒を含んだ弥勒の唇が野分のような激しさで珊瑚の唇を覆っていた。
 抱きすくめた娘の唇を強引にこじあけ、口移しに酒を呑ます。
 珊瑚がそれを呑み込んだのを確認すると、注いだ酒を取り戻そうとするかのように、法師の舌が荒々しく彼女の口内を蹂躙した。
「んんっ、ふぅ……っ」
 珊瑚が苦しげに呻き、ようやく我に返った弥勒は唇を離した。
「おまえに」
 脱力してしなだれる珊瑚の肩を強く抱き、片手は頬から喉元へ滑らせ──
「酔わされたようだ」
 耳元でささやく弥勒の低い声に珊瑚は全身が甘くしびれるような陶酔を味わった。
「……あの、法師さま」
 だが、困ったようにささやき返したのは、法師の手が喉元から小袖の中へと侵入してきたからだ。
「熱い」
 と、珊瑚の眦に唇を落とし、吐息のように弥勒はつぶやく。
「おまえの肌は熱い。なのに、何もするなと?」
「法師さまの手だって……」
 おもねるように言葉を返すのは、自分は弥勒の妻であると──彼のたった一人の女であるという自信を珊瑚が持つに至ったからなのか。
 両手を彼の首に廻せば、彼は彼女を抱く腕に力を込め、手に馴染んだふくらみをまさぐった。
「あ……」
 わずかに首をのけ反らせる娘の色香に眩暈すら覚える。
 きゅっと抱きついてくる新妻にあやすような口づけを与え、その衿元をくつろげた。
「あっ、あの」
 にわかに珊瑚が慌てたような声を発したのは、囲炉裏の火で朧ながらも室内が明るいせいだろう。
 未だ明るい場所で交わったことなどない。
 そんな珊瑚の羞恥に気づかぬふうに、弥勒は彼女の肢体を板の間に横たえた。
 はだけた合わせから覗く片方の肩口となだらかな胸元の隆起も、いつもの抜けるような白さではなくほんのりと朱を刷いたように見え、弥勒の欲望を誘った。
 横たわった珊瑚は落ち着かなげに視線を彷徨わせている。
「法師さま、ここじゃ、あの……」
「背中が痛いか。ならば、おまえが上になるか?」
「……っ!」
 薄紅うすくれないの頬がみるみるうちに濃紅こきくれないに染まっていく。
「馬鹿! って、やだ、ちょっと待って」
「待てん」
「すぐ、床を延べるから。それに囲炉裏の火を」
「このままでいい」
 身を起こそうとする珊瑚に伸しかかり、唇を重ねて制すると、彼女の肩から衣を引きずり下ろした。
「やっ! 法師さま!」
 潤んだ瞳で軽く睨む妻を再度口づけで黙らせてから、弥勒は露になった乳房に唇を滑らせ、桃色の蕾に舌を這わせて甘く吸った。
「んっ……いや……」
 長い睫毛を伏せ、朱に染まった顔を恥ずかしげにそらす珊瑚の姿は扇情的で、今すぐ彼女のまとうものを全て剥いでしまいたい衝動に駆られる。
 淡く色づいた彼女の肌が、あまりにも綺麗で、清らかで──

 長い苦しみを乗り越えて、切望したものを得た。
 泥中をくぐりぬけて大輪の花を咲かせる蓮のように。

 己の手で開花させたこの美しい可憐な花を、心をつくして、さらに鮮やかに匂やかに育ててゆきたい。
 そして、新たな生命を育もう。
「珊瑚」
「はっ、ん……なに?」
「約束を覚えているか?」
「どの、約束?」
「十人も、二十人も──

〔了〕

2008.10.19.