うたかた

 不覚を取った。
 一瞬の浮遊感のあと、退治屋の装束をまとった珊瑚は崖の上から真っ逆さまに濁流の中へと転落した。
「!」
 はっとした弥勒が少し離れた場所から振り返る。
「珊瑚!」
 その声は、珊瑚に届く前に激しい雨にかき消された。

 夜明け前、犬夜叉たちの一行は、土砂降りの雨の中を妖怪の群れに襲われた。
 おそらく、この辺りに棲む妖怪たちを奈落がけしかけたのだろう。
 まだ闇が濃い時刻、山の中、激しい雨。
 犬夜叉や雲母はともかく、人間三人と幼い七宝には動きづらく、分が悪い。とはいえ、個々の妖怪はそれほど手強い相手ではなく、犬夜叉一人でも、妖怪たちを片付けるのは時間の問題だと思えた。
 珊瑚は木々の間では飛来骨の威力が落ちるため、木立を抜けた崖の上で上空の妖怪を相手にしていた。
 土砂降りの雨に包まれ、当然、視界は悪い。
 強風を受けた飛来骨を受け取り損ねた彼女の注意が一瞬、逸れたとき、足場の崖の一部が崩れた。足を滑らせ、彼女の姿はあっという間に谷底の急流に呑まれていった。
「珊瑚!」
 一瞬だけその姿を眼の端に捉えた弥勒は、木立の中にいるかごめのところまで駆け寄り、事態の急を告げた。
「かごめさま……珊瑚が、崖から――
「ええっ?」
 弓を手に持つかごめは、驚いて弥勒を見た。
「私はすぐに珊瑚を追います。あとのことは頼みます。犬夜叉にもそう伝えてください」
「解ったわ。すぐに雲母と一緒に……」
「いえ、この雨風では、かごめさまも弓矢を使えないでしょう。犬夜叉が自由に動けるように、雲母はかごめさまと七宝の護衛に残していきます」
「でも……」
「大丈夫。珊瑚は必ず私が連れて戻ります。夜明けにはここは片付いているでしょうが、この場にとどまるのはよくない。予定通り、次の村へ向かってください。私と珊瑚も、直接そちらへ向かいます」
「解った」
 弥勒はかごめの後ろの大樹の根元に、リュックと一緒に置かれた、珊瑚の荷を手に取った。
「珊瑚の小袖はこれですね」
 川に落ちた彼女には着替えが必要との配慮だ。
「飛来骨があちらにあります。それだけ、犬夜叉に持ってもらってください」
「うん。……弥勒さま。珊瑚ちゃんをお願いね」
 珊瑚を案じて心細げなかごめに、弥勒はしっかりとうなずいた。
「必ず助けて、今日中に戻ります」

 空が白み出してきた。
 夜明けとともに、気づけば、激しい雨もやんでいた。
 崖を下りた弥勒は、川伝いに下流へと進んだ。
 川幅があり、何とか岸の岩場を歩くこともできるが、雨によって、川の水かさは増している。
 珊瑚はどこまで流されたのだろう。
 そして、無事なのか。
 不安に苛まれながら、かなりの距離を下ると、不意に浅瀬に横たわる黒い人影が眼に映った。
「珊瑚……!」
 駆け寄った弥勒が彼女の身体を抱き起こす。
「しっかりしろ、珊瑚」
 娘の意識はなかったが、ざっと見たところ、大きな怪我はないようだ。ただ、触れている身体が凍るように冷たい。
 温めなければ、と弥勒は周囲を見廻した。
 河原の向こうに、洞穴らしきものが口を開けている。
 その洞穴は川岸よりも一段高くなっていて、弥勒は、鉄砲水への用心に、珊瑚を抱き上げ、一旦そこへ移動した。
「珊瑚、私が解るか」
 依然、珊瑚は意識を失ったままで、その身体は小刻みに震えていた。
 火を焚くものはない。
 土砂降りのあとでは、焚き木すら拾えまい。
 弥勒は彼女をそこに下ろすと、袈裟を解き、洞穴の地面の上に敷いた。その上へ珊瑚を横たわらせる。
 水分を含んだ長い髪を絞り、元結いをほどいた。
 着替えの小袖は持ってきている。
 だが、まずは彼女が今着ている装束を脱がせなければならないだろう。
 小さく息を吸って呼吸を整え、弥勒は珊瑚の腰の刀や、肩当てや肘当てを外し、帯を外した。そして、びしょ濡れの装束の衿をくつろげようとしたときに、ふと、手を止めた。
「……」
 珊瑚とは口づけ以上の関係はない。
 風穴が消えて祝言をあげるまで、それ以上、彼女に触れるつもりはなかった。
 けれど、これは……
「珊瑚。責任取って、おれが必ず嫁にもらう。最大限、生き抜く努力をする。だから許せ!」
 かすれた声で珊瑚の耳にささやき、弥勒は彼女の衣を脱がせた。
 心臓に悪いことこの上ない。
 まず、上半身を脱がせると、彼女はさらしを巻いて胸を押さえていた。
 目のやり場に困りながら、弥勒は珊瑚の身体を少し抱き起こして片方の腕で支え、もう片方の手でさらしを解いていった。
 幾度か湯浴みを覗いているし、彼女の裸を見るのはこれが初めてではない。
 しかし、意識のない彼女にこのようなことをするのは、罪悪感が半端ではなかった。
 冷たい肌から濡れたさらしを解いていくほどに、ふくらみが露になる。女の乳房など見慣れていても、相手が珊瑚となると話は別だ。
 さらしから解放された、やわらかそうな二つのふくらみと、つんとした鴇色の先端が露になり、弥勒は息を呑んだ。
 鼓動が速くなり、愛しい女のそんな姿に、眩暈を覚える。
 弥勒は己を叱咤し、次は下半身の衣を脱がせていった。
 なるべく見ないように、眼を逸らして、手探りで。
 そうして、彼女を完全に裸にすると、持ってきた彼女自身の褶で、濡れた髪や肌をざっと拭いた。
「ん……」
 わずかに身じろいだ珊瑚が呻く。
 触れてみると、彼女の肌はまだ氷のように冷たかった。
 このまま小袖を着せても、凍えてしまいはしないだろうか。
「……」
 一瞬、弥勒は迷ったが、すぐに自らの緇衣を脱ぎ、それを横たわる珊瑚に掛けた。
 そして、肌小袖姿の彼自身は肌脱ぎになって、珊瑚の隣に身を横たえ、冷え切った彼女の身体を己の胸に抱きしめた。
(珊瑚……)
 自らの肌で温めるしか、方法が思いつかない。
 珊瑚は小さく震えている。
 初めてこの腕に抱く彼女の素肌。
 抱きしめている娘の吸いつくような冷たい肌に、弥勒は心臓を鷲掴みにされたような気がした。胸に押しつけられている珊瑚の乳房の感触が生々しく妖しくて、我知らず呼吸が乱れていきそうだ。
「う……ん」
 こぼれる吐息に彼女のほうを見遣ると、珊瑚はゆっくりと眼を開けようとしていた。
 ぼんやりと目の前にある法師の顔を見つめ、そして、はっとしたように全身を強張らせた。
「ほう、し……さま……?」
 凍えるような寒さの中で、己は何もまとっていない。
 彼女を抱きしめている弥勒の肩も胸も裸だ。
「い、いや……」
「珊瑚」
「いやあ!」
 信じられないような面持ちで弥勒を見つめる珊瑚は、だが、まだかたかたと震えている。肌も冷たいままだ。
「珊瑚、大丈夫だ。おまえを穢すような真似はしない」
 弥勒は珊瑚を一層強く抱きしめてささやいた。
「覚えていませんか? おまえは川に落ちたんです。だから、こんなに冷えている。温めたい」
 珊瑚は虚ろな瞳で弥勒を見つめていたが、冷たい水流に呑まれたことを漠然と思い出した。法師は自分を助けてくれたのだと知り、全身の力を抜いた。
 ただ、こんな姿で弥勒に抱きしめられていることが、死にたいほど恥ずかしい。
「法師さま」
 混乱の末に、珊瑚は口づけを誘うように眼を閉じた。
 弥勒もそれを悟り、色を失った唇に己の唇を重ねた。
 唇も冷たい。
 この冷たさを振り払おうと、始めはゆっくりと焦らすように、弥勒は珊瑚の唇を貪っていった。唇から、そして舌から熱が伝わるようにと、彼女の唇を割って舌を絡め、珊瑚の反応を窺いながら、強く吸い上げた。
「んっ……」
 珊瑚の覚醒は完全ではない。
 どこか夢の中を彷徨っているようにぼんやりと、唇を離したあとも法師の顔を見つめていた。
「法師さま……」
「寒いか?」
 震える珊瑚の肩や腕をさすり、少しでも熱を与えようとする。
「好きにして」
「……えっ?」
 珊瑚はどう見ても夢うつつだ。
 しかし、そんなことを言われたら、欲望を抑える自信がなくなる。
「好きにしていい。あたしは、もう法師さまのものだから」
「さ、珊瑚」
 愛しい娘の衣を脱がせ、肌に触れ、初めて素肌で抱き合い、抱きしめながら激しい口づけを交わした。
 そして、思いもかけない誘惑の言葉。
 弥勒はたまらず、珊瑚の首筋に唇を這わせた。
「んんっ」
(そんな声を出すな)
 艶めかしい声に理性など砕け散ってしまいそうだ。
 けれど、意識が朦朧としている珊瑚をこのまま抱いてしまうことはできない。
(だが)
 ふと弥勒は、彼女を昂ぶらせれば、手っ取り早く体温を上げることができるのではないかと考えた。
 そして、少しだけ珊瑚から身を引き、彼女の腕をさする手を、少しずつ胸元へ移動させてみた。
「あっ……」
 彼女はわずかに眉をひそめて反応を示したが、嫌がるそぶりは見せず、彼の愛撫を受け入れた。
 夢に揺蕩う珊瑚には、これは現実ではないのかもしれない。
 それでも、彼へ身を任すと言ったのは本心らしく、少し身を硬くしてはいるものの、眼は閉じたまま、ほんのりと頬には朱が差している。
「珊瑚。ひどいことはしませんから」
 そっとささやいて、弥勒は壊れものを扱うように、乳房を揉みしだき始めた。
 珊瑚は初めての感覚に声を抑えて耐えている。
 肌はまだ冷たかったが、愛撫を続けていると、少しずつ、彼女の胸元が桜色に染まってきた。乳房に舌を這わせ、弥勒の唇が鴇色の先端を咥えると、珊瑚の躰が小さく跳ねた。
「ほう……し……」
(もう少し)
 弥勒は珊瑚の片方の手を取り、指を交互に絡ませて握りしめ、片足を珊瑚の足の間に割り入れた。そして、片方の手で秘められたあわいを探る。
「えっ……?」
「大丈夫、珊瑚。責任は取ります」
 何が大丈夫なのか責任なのか、珊瑚には解らなかった。
 ただ、頭がぼうっとして、弥勒になら何でも許せると、彼への信頼感だけに浸っていた。
 さっきまで凍えるようだったのが、仄かな温かみを感じる。彼の体温のせいだろうか。弥勒の腕に抱かれていることが心地好く、珊瑚は憧れるように吐息を洩らした。
 弥勒はゆるゆると指を動かし、唇と舌で珊瑚の喉元から乳房にかけてを愛撫した。
 彼女が不安そうな表情を見せると、握り合っている手を強く握り、ゆったりとした口づけを与えた。
 そうしているうちに、彼女の花弁が潤ってきたのを感じ取り、指を中へと進めた。珊瑚は法師の手をぎゅっと握り、その部分に初めて侵入した男の指に耐えている。
 蒼白いほどだった彼女の肌は次第に朱を帯びつつあった。
 あちこちに愛撫を加えるうちに、彼女のそこは完全に潤い、彼女をさらに高みへ導くために、彼の指は巧みに花弁を探り、花芯を嬲った。
「んんっ!」
 押し殺した喘ぎが途方もなく色めいていて、弥勒は何度も我を忘れそうになる。
「珊瑚……珊瑚、我慢するな」
「法師さま、あたし――!」
 やがて、混乱のうちに昇りつめた珊瑚は、そのまま眠りの淵に落ちていった。

 よく、最後の一線を越えることなく我慢できたものだと思う。
 弥勒は自分を褒めてやりたいくらいの心境だった。
 眠る珊瑚の肌は熱いほどの熱を帯び、ほんのりと朱に染まっていた。その熱を逃さないようにと、弥勒は急いで小袖を着せた。

 気を失っていたのは、ほんの一瞬だったような気がした。
 珊瑚の眼が覚めたとき、彼女はきちんと小袖をまとい、法師の膝に頭を乗せて横たわっていた。
「……法師さま」
「気分はどうです。起き上がれますか」
 袈裟は洞穴の地面の上に敷かれていて、二人はその上にいるので、緇衣だけをまとった弥勒が、心配げに娘の顔を覗き込んでいた。
「あたし……谷底の川に落ちたんだよね。で、法師さまがあたしを助けてくれた?」
「そうです」
「……ありがとう」
 冷えた珊瑚の身体に己の体温を分け与えて。
 あやふやな記憶が、突然、脳裏を駆け、珊瑚は羞恥を覚えて頬を染めた。
「あたし、夢を見ていた気がする」
 そう口にすると、それが真実のように思えた。弥勒にとっても、珊瑚にとっても、あれはうたかたの夢だったのだ。
「動けますか? 動けそうだったら、みなのところへ戻りましょう」
 身を起こそうとする珊瑚を弥勒が支え、二人は立ち上がった。
 そして、汚れてしまった袈裟や褶、退治屋の装束などの荷をまとめる。
「あの、法師さま」
「なんです?」
「……見た?」
「え?」
「あたしを着替えさせてくれたんだろう? すんだことだし怒らないけど、あの……見たの? あたしの、その」
 少しうつむき加減に、桃色の頬で下から見上げてくる珊瑚に動揺を隠せず、弥勒は思わず目を逸らしてしまった。
「この場合、仕方がないでしょう。でも、腰から下はできるだけ見ないように努力しました」
「こっ、腰から上はしっかり見たんだ!」
 赤面する珊瑚の頭を力任せに抱き寄せ、弥勒はその耳元に甘やかにささやいた。
「怒らないって言ったじゃないですか。そりゃ、本心では全部しっかり見たいですよ。男ですから」
「!」
「一応、これでも反省しているんです。珊瑚の気がすむまで、いくらでも詫びます」
 抱き寄せられた珊瑚は、鼓動ばかりが激しくなり、どうしていいか判らずに、熱くなった頬を、ただ無言で法師の胸に押し当てた。
 弥勒は自分のどこまで触れたのだろう。
 ぼんやりと、互いに裸で抱き合っていたような記憶がある。
 ――自分たちは結ばれたのだろうか。
(それでも構わない)
 いつか、弥勒と本当に結ばれるとき、この出来事が夢だったのか現実だったのかを問うてみたら、彼は真実を教えてくれるだろうか。
 弥勒の胸に頬を押しつける珊瑚の唇に、ふと、微笑がこぼれた。

〔了〕

2013.3.6.