愛しいひとと祝言をあげた。
彼が選んだ白綾の衣裳に身を包み、固めの盃を交わし、とこしえの愛を誓い合った。
そして、わたしは今宵、弥勒さまの妻になる。
空蝉 〜 朝月夜の章 〜
揺れる火影を、珊瑚はじっと見つめていた。
弥勒が彼女のためにわざわざ遠くの町まで行ってあつらえてくれた綾絹の小袖を脱ぎ、今、珊瑚は、やはり彼が用意してくれた真新しい白帷子に着替えている。
夫婦となって初めての契りを交わすために、このような寝衣まで用意するなんて、彼らしいといえばそうかもしれないが、恥ずかしさに頬が火照ってくる。
ふと、傍らの夜具に視線を移した。
「……」
それだけで、壊れそうな勢いでどきどきと胸がうるさく鳴り、珊瑚はいたたまれない面持ちでそっとうつむく。
丁寧に梳いた髪がさらさらとこぼれた。
月は、もう出ているだろうか。
不意に部屋の障子が開く音がした。
「珊瑚」
やさしい、低い声音に珊瑚は顔を上げ、閨に入ってきた青年をそろりと見遣った。
最愛の夫を。
障子を閉め、弥勒は、固くなって座っている珊瑚の斜め前に腰を下ろす。
今、ここに二人きり。
弥勒もまた、白の帷子姿で、視線に困ってうつむく娘の様子を黙って見つめた。
「あ……あの……」
緊張の極みで珊瑚は弥勒に向かい、折り目正しく指をつく。
「よ、よろしくお願いします……」
室内にひとつだけ灯した燈台の火が、紅潮した珊瑚の頬を美しく照らし出している。
顔を上げた黒珠の瞳が熱く潤んでいるのを見て、弥勒の心臓がどくりと音を立てた。
自身も珊瑚と同じくらい、否、それ以上に緊張しているのかもしれなかった。
初心な娘の艶かしさに眩惑される。
「珊瑚」
弥勒は妻となった娘の手にそっと己の手を重ねた。
「そんなに固くなるな。私が気おくれしてしまうだろう」
「法師さまが?」
いかにも不思議そうに珊瑚が彼を見たので、ふっと緊張が解けたように感じ、弥勒は珊瑚の手を取ってそのまま彼女の身体を引き寄せた。
「あっ……」
「ほら、解るか? 心臓の音がこんなに速い」
まとうのは互いに薄い帷子一枚。
そんな姿で抱きしめられ、珊瑚の鼓動はなおも早鐘を打ち続けたが、耳を当てた法師の左胸から彼の心音をじかに感じると、不思議と、それだけで安心できた。
苦しいほどの幸せに身が浸されていく。
熱に浮かされたみたいにぼうっとするが、このままこの腕に身を任せていればいいのだと思うとどこまでも心地好く、その心地好さを手放すのが惜しかった。
「うん。法師さまの心臓の音、聴こえる」
「……愛している、珊瑚」
己の胸に頬を押し当てている娘の顎を持ち上げ、弥勒はその唇に羽のような接吻を与える。
触れることを許された唇は、甘い花の香りを思わせた。
「法師さま」
桜の花びらを唇に受けたような、そんな感覚に捕らわれて、珊瑚は夢見るように瞳を上げた。
そこには静かな情熱を湛えた愛しい男の眼差しがあった。
とくんと心臓が鳴り、珊瑚はそれを誤魔化すように法師の右腕を取る。
大切なものを扱うようにその手を頬に当て、呪いの解けた掌の中央に躊躇いがちに唇を寄せる。
「あたし、あたしね。法師さまの手が好き。風穴があったときも、この手が好きだった。法師さまの手は、いつもあたしを守ってくれた」
ささやくように言って、かつて風穴が穿たれていた場所に口づけた。
「法師さまが好き。法師さまの全部が大好き」
「珊瑚」
いきなり唇を奪われ、珊瑚はそれ以上言葉を発することができなかった。
――熱い。
頬が、
唇が、
全身が。
珊瑚の反応を探るように蕾のような唇をついばんでいた弥勒の唇がふっと離れた。
そして彼女の肢体を抱きしめる。
「どうしたんだろう、このおれが。おまえに触れることが、こんなにも怖いとはな」
熱を帯びているのは自分だけではないのだと知り、珊瑚は胸の高揚を持て余しつつ、口づけの余韻に酔い、嬉しさに震えた。
「ああ、珊瑚。まるで、初めて女に触れたような気分だ」
「あたしも。あたしも、初めてじゃないのに、なんだか初めてみたいな気がする」
遠慮気味に弥勒の背に腕を廻し、彼の胸に顔を埋めた珊瑚は、だが、ふと違和感を覚え、すぐに動きをとめた。
「法師さま……?」
彼の顔を見上げると、どうしたことか、突然、謂れもなく頬を殴りつけられたような、驚きの混ざったどうにも複雑な表情をしてこちらを見ている。
「どうしたの?」
「それは、本当……か?」
「何が?」
「初めてじゃないというのは」
「……」
一瞬、珊瑚はきょとんと瞳を瞬かせ、そしてすぐにはっとした。
「やっ、やだ、あたしったら!」
珊瑚は真っ赤になって弥勒から眼をそらそうとしたが、彼がそれを許さなかった。
「おまえは初めてなのでは……いや、私はそう思い込んでいたが、もうすでに誰かと――?」
「あのっ! 初めて! 男の人と夜を過ごすのは初めて!」
「では、何が」
「……づけ」
打ちのめされたような弥勒の愁眉を目の前にして己の失言を申しわけなく思い、聞き取れないほどのか細い声で珊瑚は答えた。
「何だ? 怒らないから、はっきり言ってみなさい」
「……口づけ。今日が初めてじゃ、ないの。あたし」
珊瑚が下からそっと法師の様子を窺うと、衝撃を隠せない様子で彼は珊瑚をじっと見ていた。
「いったい、誰と――」
「お願い、怒らないで。意識のない法師さまにあんなことして悪かったけど。でもあたし、夢中で」
「意識のない……、私? 珊瑚、おまえ、私に口づけを?」
恥ずかしさにいたたまれない想いで、珊瑚は小さくうなずく。
「一度だけ。ごめんなさい」
そして、彼の表情を見ようとしたが、急にふわりと身体が浮いた。
「えっ?」
弥勒に抱きあげられた珊瑚が下ろされた場所は褥の上だった。
「あの、法師さま――」
「おまえの初めての口づけの相手は私で、そのときの私には意識がなくて、そしておまえはまだ男を知らんのだな?」
「は、はい」
「なら、いい。その話は明日にでもゆっくり聞かせてもらおう」
褥に仰向けに寝かせた珊瑚の上に、弥勒の躰が覆いかぶさる。
潤沢な瞳に視線を合わせてゆっくりと顔を近づけ、今度は深く唇を重ねた。
「んっ……んんぅ」
その紅唇を思う存分味わい、口内に舌を侵入させ、法師は逃げる舌に舌を絡める。
「だが、ずるいな。意識のない珊瑚の唇を奪うことが許されると知っていたなら、私にだっておまえの唇を奪う機会はいくらでもあった」
黒い瞳がからかうような色を浮かべたのを見て、珊瑚は全身が火照るのと同時に逃げ出したいような羞恥を覚えた。
「だから、ごめんって……!」
「いいんだ。もう、しゃべるな」
身を起こした弥勒は燈台の火を吹き消すと、横たわる珊瑚の白帷子の帯に手をかけた。
「あ……」
「怖がらなくていい。感じるまま、そのままに。ゆっくり、愛してあげますから」
帯が解かれ、合わせが開かれる。
透きとおるように白い肌が露となり、乳房が夜気にさらされた。
恥じらいに耳が熱くなる。
身を固くした娘はささやかな抵抗の代わりにぎゅっと眼をつぶって顔を横に向けた。
やわらかなふくらみに触れる彼の掌を感じる。
その下の心臓が壊れそうな音を立てている。
珊瑚の唇から甘い吐息がこぼれた。
「法師さま、感じる……?」
「うん?」
「感じる? あたしの心臓の音」
「ああ。おれと同じくらい速い」
首筋に熱い吐息を感じた次の刹那、じかに肌に触れた彼の唇が、珊瑚の意識を乱していった。
――雲が切れたのだろうか。
月が、障子越しに朧な明かりを映した。
珊瑚の緊張をほぐすように、少しずつ、少しずつ、ゆったりとした愛撫を弥勒はその躰に加えていく。
夜の帳の中に二人きり。
焦がれてやまなかった人と愛し合う。
その喜びに心と躰が震えた。
互いが互いを求めるのに、もう何の障害もない。
月影が照らす薄闇にまぎれ、あとはただ、愛しいひとに溺れるだけ──
〔了〕
2009.3.6.
祝言がすむまで、二人は完全プラトニックな関係です。