闇に溺れる
新婚の初々しさが漂う閨の闇。
閨の中には灯台が二つ、ひとつは褥の枕元を淡く照らすように、もうひとつは文机の横に、灯明皿の代わりに白い梔子を活けた器をのせて、置かれていた。
仄かな灯りを受ける白い花は、薄闇に白く浮かび上がるようだ。
その梔子の甘い香りが室内を漂う。
弥勒と珊瑚は、夜具の上に座り、二人とも肌小袖姿で、珊瑚は弥勒の腕に抱かれ、彼の胸にしなだれかかっていた。
法師は珊瑚を両腕で抱き、美しい妻の髪を弄ぶように梳きながら、しきりに何かささやき続けている。
「でも、そんなこと」
抱きすくめられたまま、口ごもる珊瑚は、困惑しきったように眼を伏せていた。
「嫌だったら、少しだけでもいいんです」
「でも……」
頬を赤らめ、珊瑚はうつむく。
弥勒は彼女のこめかみに口づけ、諭すように口説き続けた。
「私はいつも珊瑚にしてあげてるでしょう? でも、珊瑚はまだ一度も。せっかく夫婦になったというのに」
珊瑚は恥ずかしそうに弥勒の胸に顔を埋めた。
「だって……じゃあ、夫婦はみんな、そんなことするの?」
「もちろんです」
間髪を容れず、いとも自然に弥勒は肯定した。
「では、舐めるだけ。ちょっとでいいです。それでも駄目ですか?」
「だって、どうすればいいのか解らないし……」
口でしてほしい、と法師にねだられ、珊瑚は恥ずかしくてたまらないのだが、それが当たり前のことだと言われれば、彼女に反論する術はない。
初恋を実らせ、そのまま夫婦になり、弥勒しか知らない珊瑚には、どこまでが普通でどこまでが特別なことなのか、判断の材料がなかった。
「大丈夫です。私の言う通りにすればいいんですから」
「でも……」
「絶対に、からかったりしません」
弥勒は枕元に置いていた珊瑚の元結いを手に取って、解かれていた彼女の髪を軽く結わえた。
そして、白い首筋に顔を埋めた。
「んっ……」
彼の唇が探るように喉元を這い、珊瑚は熱い吐息を洩らす。
「いいでしょう? 珊瑚」
ささやくような懇願はやがて甘い口づけに変わった。
わざと時間をかけて、弥勒は珊瑚の唇を食み、焦らすように彼女の唇を舌先で舐め、彼女が反応しようとすると、すぐに引いた。
「……珊瑚? いいですよね?」
「本当にちょっとだけだよ。すぐやめるよ」
「大丈夫。じきに慣れます」
一瞬、珊瑚は胡散臭そうな眼を夫に向けたが、小さく息をついて、己を抱く彼の手を外し、立ち上がろうとする。
「灯り、消すね」
「駄目です。今宵は月が出ていないんですから」
「……」
珊瑚が法師を見つめると、法師はにっこりと笑顔を作った。
「でも、いつもは暗くたって──」
「今宵は明かりを灯していたいんです」
「……」
躊躇う彼女を法師は抱き寄せ、なおも邪気のない笑顔でささやきかけた。
「してくれるって約束でしょう?」
「ちょっと待って。あの……」
「おまえに衣を脱がせてほしい」
珊瑚に考える隙を与えないように、愛撫を交え、弥勒はたたみかけるように言葉を続けた。
二人はもつれ合うようにして褥の上へ倒れ込む。
仰向けに横たわった法師の、妻を見つめる躍るような瞳を見て、自分を緊張させる最大の原因はこの視線だと珊瑚は気づいた。
彼女は枕元に置かれた衣類の中から彼の帯を手に取ると、それで彼に目隠しをした。
「え? 珊瑚……?」
「動かないで。してほしいんだろ?」
「でも、これでは」
視界を覆った帯を取ろうとする法師の両手を珊瑚が押さえた。
「駄目。してほしいなら、我慢して」
この両手を自由にしておけば、視界を塞いだところで、また何をされるか解らない。
彼女は法師のまとう白小袖の帯を抜き取り、彼の両の手首をその帯で縛った。
「何をするんです」
「だって、見られていると恥ずかしいから」
褥に仰向けに横たわる弥勒は、目隠しをされ、両手首を頭上で拘束されて、そんな妻の為しように、可笑しそうに笑いをこらえている。
「おまえ、初心者のくせに、することは上級だな」
「えっ? 何か変?」
「いや。珊瑚の思うようにやってみてください」
何故、弥勒が笑うのか、珊瑚には解らない。だが、彼の動きと視線を封じ、少し気が楽になった。
無防備に横たわる弥勒の上に覆いかぶさり、珊瑚は躊躇いがちに、彼の唇の端に口づけを落とす。
朧な灯火と梔子の香りが、閨の秘め事を淡い幻のように照らしていた。
「動かないでね、法師さま。どうすればいいのかは口で言って」
「ああ。こういうのも悪くない」
すでに帯が解かれた法師の肌小袖の合わせを押し広げ、珊瑚は彼の肌に、首筋から肩、胸元へと、甘やかな口づけの雨を降らせていった。
口づけの数が増えていくごとに、微かな吐息を弥勒は洩らす。
愛しい人の姿が見えないことが、その人に触れられないことが、想像以上に彼の感覚を鋭敏にした。
珊瑚の愛撫もいつもより大胆であるように思える。
ゆっくりと、彼の全身に口づけを施した珊瑚が、やがて彼の下帯に手をかけた。
法師に見えるのは闇のみ。
だが、何と甘美な闇だろう。
たどたどしく触れてくる手。
やわらかい唇。
濡れた舌の感触。
動きがとまれば彼が指示を与えるが、こわごわ触れてくる珊瑚の愛撫は次にどこへ飛ぶか解らず、その予測のできない感覚が、焦らされているようでもあり、たまらなく官能をかきたてる。
弥勒の声に導かれ、闇に後押しされ、彼女は少しずつ大胆になる。
珊瑚の舌の動きに追いつめられて、弥勒が低く呻いた。
「もういい、珊瑚」
苦しげな彼の声にはっとなった珊瑚は、すぐに身を起こし、横たわる弥勒にすがりついた。
「ごめん、痛かった?」
「いや。おまえの口の中に出すのは、まだ、何というか罪悪感が……」
「……」
真っ赤になった珊瑚は、無言で弥勒の首筋に顔を埋めてしまった。
そのまま彼女が動かないので、両手を縛られ、動くことができない弥勒はもどかしげに身じろいだ。
「珊瑚、まさか、これで終わりではないでしょうな。早くほどいてください。このまま放っておかれるのは、かなりつらいものがあります」
「ご、ごめん」
珊瑚は慌てて弥勒の目隠しを取り、手首の拘束を解いた。
途端に視界が反転し、強い力で褥に押し倒された。
二人の位置が逆になる。
「ほう、し……」
言葉を挟む間もなく、喰らいつくような勢いで、珊瑚は弥勒に唇を奪われていた。
熱っぽく舌を絡ませ、深く、互いを感じて求め合う。
「……ひとつになりたい」
耳元でささやく弥勒の声に、珊瑚は甘くしびれるような陶酔を味わった。
彼を抱きしめようと伸ばした両手は、だが、弥勒に捕らえられ、頭の上で束ねられる。
「え?」
先程、弥勒にしたのと同じように、珊瑚は両手首を縛られ、あっという間に弥勒の帯で目隠しをされてしまった。
「ちょっと、どうして?」
「私が味わった闇を、珊瑚にも味わわせたい」
甘美すぎる闇を。
戸惑う珊瑚の首筋に熱い唇を押しつけ、強く吸うと、弥勒は彼女の肌小袖の帯を解き、その合わせを押し開いた。
「あっ……」
珊瑚が不安げな声を上げる。
両手の自由が利かず、何も見えないというのは、ひどく頼りない。
「大丈夫」
弥勒の掌が肩を撫で、鎖骨を撫で、露になったふくらみを揉みしだく。
不安そうな珊瑚の声を、彼はたちまち甘い喘ぎに変えていった。
目隠しをされた珊瑚には彼の動きが予測できず、弥勒の気配に聞き耳を立て、与えられる鮮烈な快感に耐えるしかない。
彼の唇が性急に柔肌をついばんでいく。
法師の気配はこんなにも甘いものだっただろうか。
(違う、甘いのは梔子の香りだ)
彼が見たのと同じ闇を、彼女も感じた。
弥勒の形をした闇に翻弄されて、何度も我を忘れそうになる。
「──いいか?」
掠れた声で問われ、珊瑚は夢中でうなずいた。
ぴったりと閉じていた膝を開かれ、あっ、と思ったときにはもう、衝撃が彼女の躰を貫いていた。
「っ!」
刹那、息がつまったようになり、声もなく珊瑚は身をしならせる。
息苦しくて、全身が熱く蕩けそうで、いつもより濃密な熱を分け合っていると思った。
弥勒の荒々しい息遣いと、珊瑚の悲鳴にも似た甘い声が、長く閨の中に響いていた。
ようやく目隠しを解かれ、弥勒の顔を瞳に映した珊瑚は、羞恥のあまり、身をよじって彼に背を向けた。
「おまえは最高です、珊瑚。正直、まだ足りないくらいだが」
二人とも息を乱し、全身に薄汗を滲ませている。
弥勒は、口づけを交えながら彼女の手首の拘束も解き、後ろから抱きしめるように彼女に寄り添い、横たわって、伸ばした片手で乳房を掴んだ。
やわやわと乳房を揉まれ、珊瑚は自身にもまだ残る甘い疼きを誤魔化そうと、言い訳をするようにつぶやいた。
「……香りが」
「香りに酔ったか? 確かに寝間にこもると媚薬のようだな」
夜の闇に沈む香気。
だが、媚薬は法師自身だと珊瑚は思った。
「法師さま」
腕に通している肌小袖の衿を合わせながら、珊瑚は身体を反転させ、法師のほうへ向き直った。
「なんです?」
「まだ足りないって言ったよね」
弥勒は彼女の黒い瞳を探るように見つめる。
熱っぽい珊瑚の眼差しが、もう一度と誘っていた。
「いいのか?」
「あたしも、もう少し法師さまに触れていたい」
恥ずかしそうに彼女の長い睫毛が瞬いた。
「でも、灯りは消して」
「解りました」
弥勒は愛しげに微笑した。
そのあとは言葉など必要なかった。
唇を重ね、躰を重ね、互いの闇に互いに溺れた。
甘い香気が漂う闇は、ひどく甘美だった。
〔了〕
2014.3.5.