夜想曲

 事後のけだるさと甘い余韻に漂いながら、ぐったりと褥に身を沈め、珊瑚は荒い呼吸を整えていた。
 弥勒はそんな彼女の長い髪を弄ぶように梳いている。
 華頭窓から斜めに射し込む月の光が、横たわる二人に陰影を刻み、淡く仄白く幻想的に部屋を染め上げていた。
「……」
 ふっと珊瑚は傍らの男へ眼を向ける。
 横臥した法師は肘をついた片方の手で己の頭を支え、左手の指先を愛しげに娘の髪に絡ませ、遊ばせていた。
 彼のはだけた白小袖の胸元から、そ、と珊瑚は眼を逸らす。
 衾で身を覆っているものの、自身がまとう肌小袖も乱れきっているはずだ。
 彼に取られぬよう、そっと夜具の中で衿をあわせて裾をなおし、ほどけかかった頼りない帯を片鉤に結ぶ。
 艶かしい彼の視線に無防備にさらされていることが、彼女を落ち着かなくさせた。
 珊瑚は再び法師を見遣る。
 月華が映り込んだ娘の黒珠の瞳を受け、慈愛に似た色が、揺蕩うように幽かな微笑を浮かべる弥勒の瞳に宿る。
 美しいと珊瑚は思った。
 背後に朧な光が落ち、影になっているが、闇のような深い瞳に魅了される。
 この瞳が、この表情が、どれほどの女を蠱惑してきたのだろう。
 けれど、視線は彼女に向けられているのに、彼の眼は、彼女を通して別の何かを見ているようで──
 珊瑚はわずかに眉を曇らせた。
 いつも自分ばかりが弥勒に翻弄されて、酔わされて。
(でも、法師さまは)
 行為に没頭する一方、常にどこかで冷静さを保っているように見えた。

 ──そんなの悔しい──

 不意に珊瑚は腕を伸ばし、弥勒の髪を束ねている元結いを解いた。
「あ、こら」
「あたしばかり乱されるなんて、不公平だ」
 あたかも髪のことを言っているように言葉をぼかし、珊瑚は小さな不満を声にした。
 が、すぐに頬を染め、藪蛇だったと知る。
 髪を解いた彼の顔が、彼女の顔を覗き込む漆黒の瞳が、艶っぽく悩ましく、胸の鼓動は高まるばかり。
 冷まそうとしていた熱がよみがえり、再び全身が火照ってくる。
 珊瑚は彼から顔を逸らし、二人の身体に掛けられた夜具を両手で顎のところまで引き上げた。
「どうした?」
 彼女の様子に何かを感じ取ったのか、法師が声を潜めてささやきかける。
 そんな短い言葉を発する声さえもが途方もない色香を含み、珊瑚はぞくりと身を震わせた。
「別になんでも……」
 ない、と言う前にすいと頬を撫でられ、肌が粟立つ。
 彼のほうは淡々としているように見えるのに、どうして自分だけが彼の何気ない仕草にここまで動揺させられるのかと思うと、たまらなくなった。
「ねえ」
「うん?」
 あたしじゃ法師さまを満たせない?
 そんな言葉で直接問うことなどできるはずもなく、珊瑚は迂遠な問い方を探した。
「あの、男の人って、みんなこんな感じなの?」
「……」
 刹那、法師の表情が強張る。
「さ、珊瑚……?」
 けれど、彼を見つめる無垢な瞳は真剣で。
 弥勒は内心の動揺を意志の力で抑えつけ、やや引きつり気味に珊瑚の瞳を覗き込んだ。
「まさかとは思うが……足りんのか?」
「へ?」
「私では、その……物足りない、とか?」
 婉曲な言い回しが別の意味に解されたことに気づき、珊瑚は見る間に真っ赤になった。
「ちっ違っ……!」
「他の男がどんなだか気になるのか……?」
 珊瑚は慌てて首を横に振った。
「そんな意味じゃないっ! だって法師さま、いつも冷めてるんだもの」
「冷めてる? ……おれが?」
 真っ赤に染まった顔を衾で隠し、珊瑚は小さくうなずく。
「法師さまは、いつもどこか遠くを見てる。あたしばかり夢中にさせて、でも法師さまの心はここにはない」
 相手だけを忘我に陥らせ、そんなときでも、いつも一歩ひいた余裕の態度で。
「珊瑚」
「物足りないのは法師さまのほうでしょ? 無理してあたしにつきあってくれても、あたしなんか、つまんないから、だから──
「珊瑚。こちらを見なさい」
 感情的に走りかけた声を遮り、惑う珊瑚の視線を捉えると、弥勒は彼女の唇を深く求めた。
 彼女の顔の両側に腕をついた彼の手が、乱れた彼女の髪を再び梳く。
「おまえの目に、私がそんなふうに見えるのだとしたら」
「法師さま……?」
「それは己の罪を恐れているからだ」
「罪?」
 穢れを知らぬ瞳に射すくめられ、弥勒は慄くように珊瑚の肩口に顔を埋めた。
「私は、途轍もなく残酷なことをしているのではないだろうか」
「どうして? 奈落を倒す前にあたしとこんな関係になったから?」
 彼の声は掠れていて、途方に暮れた幼子のようで、珊瑚はたまらず、弥勒の頭を抱きしめる。
「あたしが望んだことだよ。法師さま一人の責任じゃない」
「だがおれは……おまえに対して責任がある」
 珊瑚の首筋に顔を押し付けたまま、弥勒は左手を滑らせた。
「あ……」
 彼女の躰がぴくりと震え、強張る。
 さっき結んだ肌小袖の帯を法師の手に解かれ、手は、そのまま衿の合わせに差し込まれた。
「ほう……し、さ……」
 冷たい、と思った。
 なんて冷たい手。
 掌は、ゆっくりと彼女の肌を這う。
 鎖骨の辺りから肩へと移動した手指が動くにまかせ、まとう単が取り払われていく。
 熱を帯びた躰と、高まる鼓動と、冷たい彼の手。
 それだけが際立って意識に刻まれる。
 力を失い、ぱたりと褥に落ちた娘の右腕の肘まで下りた彼の手が、再び肩まで戻ると、今度は乳房の横を通って脇腹まで下りてきた。
「あ……法師、さま──
 この動悸と震えをとめたくて、珊瑚は弥勒を抱く腕に力を込める。
 脇腹から太腿にかけてすべらかな肌を撫でていた掌が、ゆるやかに腹部へ移動すると、臍の下で停止した。
「ん……いや……」
 いま、彼の下で、自分はあられもない格好で横たわっていることだろう。
 だが羞恥に身をよじるそんな珊瑚の抵抗を許すことなく、弥勒は夜のような声で言葉を紡いだ。
「ここに」
 弥勒の唇が頤をたどり、珊瑚の耳朶を甘く噛んだ。
「子が宿ったら……どうする?」
 最も恐れているのはそれ。
 自分一人への断罪なら甘んじて受けようが、珊瑚や、まして、彼女と己の血を継いだ小さな生命をも巻き添えにすることなどできはしない。
 だから、短い夜のひとときも、全てを忘れて彼女に溺れることへの怯えがある。
 珊瑚との逢瀬は甘美な衝動と、同時に罪の意識を自覚させられる。
 弥勒の本心を垣間見たような想いに駆られ、珊瑚は羞恥も忘れて彼の背を掻きいだいた。
「法師さま、これは誓約うけい。そんなふうに思っては駄目?」
「うけい?」
「そう。あたしだけの誓約」
 ささやくように言って、珊瑚は彼の髪に口づけた。
「もし、子ができたら、命がけであたしが守る。みんなには絶対に迷惑はかけない。守らなくちゃいけないものができたんだから、法師さまも死なない」
「子ができなければ?」
「このままでいい。このまま、みんなと一緒に目的を果たすために進めばいい」
「それはまた。随分と都合のいい誓約だな」
 弥勒の舌が熱っぽく耳を這い、珊瑚は喉をそらせて熱い吐息を洩らした。
「いいの。あたしの自己満足だから。どっちにしても、法師さまを死なせやしないし、あたしもそう簡単に死ぬつもりはないよ」
 彼は再び彼女の首筋に顔を埋めた。
 白い喉を舐めあげ、彼女の左足に己の左足を絡める。
「法師さまが罪の意識を感じているなら、あたしも同罪だ。行きつくところまで、一緒に連れてって」
「珊瑚……おまえは強いな」
 心も罪も運命も、全てを共有したいと思えるおんな。
 何故、自分には珊瑚でなければならないのか──そんなことを、ふっと理解したような気がした。
「あ……」
 彼の手を冷たいと思ったのは錯覚だったのだろうか。
 弥勒の掌が触れている部分、そこから、際限なく熱を送り込まれているようだ。
 彼の掌が熱い。
 自らの下腹が熱い。
 そこから伝わる熱がどんどん全身へ広がっていき、いま、はっきりと火照っている躰を持て余して、珊瑚は苦しげに身悶えた。
「はぁ……ほう、し、さま──
「今夜だけ。身も心もおまえに溺れさせてくれ」
「えっ──? あっ、や……んんっ!」
 絹を愛でるように内腿を撫で上げられ、官能のざわめきに珊瑚が呻く。
「おまえが悪い。おまえが、他の男も知りたいなどと言うから」
「あたし、そんなことっ」
 逃げようとしたが、すでに片方の足は彼の足にからめとられて動きが取れない。
 彼の指は熱くたぎる敏感な部分に触れようとしていた。
「閨でおれの素顔を見たいと言ったのはおまえだろう……?」
 形のいい長い指が巧みに珊瑚を追いつめていく。
「今宵は朝まで寝かせんからな」
「は、やあっ、あ……あ!」
 気が遠くなる。
 髪を弄ぶ彼の右手の数珠玉の音が月の鏡を思わせ、首筋に顔を埋める彼のくぐもった声が夜の闇を思わせた。
「おまえはおれを狂わせる」
 おまえだけが──

 夜は、まだ終わらない。

〔了〕

2008.6.18.