闇に呑まれる夢を見た。──
よもすがら
生まれ育った里にいた。
妖怪退治屋の里。
もう、滅びてしまったのに。誰もいないと解っているのに。
夜の帳がおりた家の外へ、誰かが出ていく気配がして、珊瑚は顔を上げる。
(琥珀──?)
部屋を出て、家を出た。
室内も真っ暗だったが、一歩外へ出ると、そこは墨汁で塗りつぶしたような、一面の深い闇に閉ざされていた。
黒しか見えない世界に足がすくむ。
不意に恐怖を覚えて屋内に戻ろうと我が家を振り返ると、そこは知らない家だった。
息を呑んで立ちすくむここは、知らない村だった。
琥珀の姿を求めて、何か拠り所になるものを求めて、珊瑚は震える足を動かした。
闇に染まったおびただしい家々が軒を連ね、同一の戸口が並んでいる。
どこまで行っても闇と、静寂と、知らない村の知らない家々の扉が続いている。──無限の空間。
闇はどこまでも深く、生きているものの気配すらなく、珊瑚はこの異様な世界に自分がたった一人であることを知った。
闇が迫る。呑み込まれる。声すら消されて。やがて、彼女自身も──
誰か。誰かいないの?
かごめちゃん、犬夜叉、七宝、雲母!
法師さま──!
「……ご、珊瑚」
激しく肩を揺さぶられ、珊瑚はふっと眼を覚ました。
眼を開けたものの、まだ微かに震えている珊瑚の頬を、ぺちぺちと軽く法師の手が叩く。
「珊瑚、私が判るか?」
薄暗い闇の中で、荒い息をつく珊瑚は己を見つめる弥勒の顔を瞳に映した。
「法師さま──」
今宵は通りかかった村の名主の家に宿を借り、ひとつの部屋に衝立を立てて、みなで雑魚寝をしている。
「うなされていましたよ」
静かな、心配そうな弥勒の声に、珊瑚ははっとなって気だるげに上体を起こした。
つい先ほどまでの恐怖が夢であったことに安堵する一方、同じ部屋で眠る仲間たちを起こしてしまったのではないかと気になった。
「かごめちゃん、は?」
「大丈夫。かごめさまも七宝もよく眠っています」
珊瑚の隣の夜具で、かごめと七宝は小さな寝息を立てている。
「犬夜叉は……」
こちらを見上げる雲母の背を撫でてやりながら、珊瑚は申しわけなさそうに衝立の向こうへ視線をやった。
「犬夜叉はおまえを起こそうか迷っていたが、私が起きたので、私に任せてくれました」
「……ごめん」
うつむく珊瑚の髪を弥勒の手がやさしく撫でた。
「何を謝る? それより、少し話しませんか」
弥勒に促されるまま、雲母をかごめの布団に寝かせ、珊瑚はみなの眠る部屋をそっとあとにした。
星明かりに照らされた縁に出ると、まだわずかに強張っている珊瑚の身体を後ろから抱きしめるように弥勒はそこへ腰を下ろした。
「どんな、夢を見た?」
「もう平気。法師さまが起こしてくれたから」
「口に出すと、少しは気分が落ち着くと思いますよ」
しばし躊躇していたが、珊瑚は、夢の中で自分が感じた孤独や恐怖、闇色の世界で肌を掠めた虚無のようなものをぽつりぽつりと語り出した。
弥勒は何も言わず、じっと耳を傾け、ただ彼女を抱きしめていた。
「ごめんね、夢を見たくらいで、法師さまを起こしちゃって」
「たかが夢か。されど、その恐怖は本物でしょう? 悪夢から覚ましてやれてよかった」
「つらい思いをしているのはみんな一緒なのに。自分の弱さが情けないよ」
「人はみな、弱くて当たり前ではないか?」
法師の腕の中で珊瑚は弱々しく首を振る。
「かごめちゃんは強い。犬夜叉だって強い。たぶん、自分の心の影に出会ってもあたしほど取り乱したりはしない。あたしの心が弱すぎるの。法師さまだって──」
「人とは弱いものだ。だから、強くなりたいと日々願う。それが生きるということではないか?」
法師は静かに珊瑚の言葉を遮った。
「己の弱さから眼を逸らさず、それを直視することも、ひとつの強さなのではないだろうか」
珊瑚は首を後ろへ向けて背後の青年の顔を見遣った。
彼女の視線を受け、やさしく眼で微笑む彼の強さは、どれほどの自らの心の闇や恐怖と対峙して培われてきたものなのだろう。
珊瑚は顔を前へ戻し、自分を抱く彼の腕にそっと手を添えた。
「法師さまは……犬夜叉たちと出会う前は、ずっと一人で旅してたんだよね」
「ああ」
「こんなとき──こんなつらい夜、法師さまはどうやって独りで耐えてたの?」
自分とは比べ物にならないだろう恐怖に苛まれる数え切れないほどの夜。
仲間が一緒でもこれほどの苦しさから逃れられないというのに、ましてやそれを独りで耐えることのつらさはいかばかりだろう。
法師はちょっと微笑むと、ややきまり悪げな表情を浮かべた。
「怒らんか?」
「あたしが? なんで怒るのさ」
「おなごの……肌を求めた」
腕の中の娘はぴくっと身を強張らせ、顔をうつむかせた。
「怒らんのか?」
「……怒らないって言ったし。言わせたのは、あたしだから」
今、は?
珊瑚は胸のうちで問いかけた。
法師さまは不安でたまらない夜、恐怖に押しつぶされそうな夜、幾度かあたしと肌を合わせた今も、他の女の人の肌を求めているの?
──そんなこと訊けない。
「落ち着きましたか?」
穏やかな、しかし気遣わしげな声が聞こえた。
「あ……うん。法師さまがいてくれるから。大丈夫」
珊瑚は法師の腕をそっと撫でた。
「法師さまがあたしを癒してくれるから」
「珊瑚」
彼女の手を法師の手が捉え、髪に口づけがおりてきた。
「おまえに初めて触れた日から、他のおなごとは一度も枕をともにしていません」
「ど、して……そんなこと」
「それが気になるんだろう?」
心を見透かされ、珊瑚は瞳を彷徨わせる。
「あ、あの──」
「おまえは、私がおまえを癒していると言った。私もおまえに癒されている。刹那的におなごの肌に逃げるのではなく、おまえの存在そのものが私を癒しているんですよ?」
反射的に珊瑚は後ろの男に向き直って、彼の両腕を掴んだ。
「でも──でも、あたし、法師さまに何もしてあげてない。法師さまはこうやってあたしを抱きしめてくれて、安心する言葉を与えてくれるのに、あたしはどうやって法師さまを安心させてあげたらいいの?」
「珊瑚、おまえは私のそばにいてくれるだけで」
「女の肌で不安や恐怖が薄らぐんだったら、いつでもあたしを抱いていいから」
直情的に口走ってしまった彼女らしからぬ言葉に弥勒が驚きの表情を見せ、はじめて珊瑚は己が放った言葉の内容に気づいた。
「だ……って、それくらいしか思いつかないんだもの」
自分の言ったことが急に恥ずかしくなり、真っ赤になって珊瑚はうつむく。
そのまま法師から視線を逸らせていたが、一向に彼が言葉を発しないので不審に思い、恐る恐る彼のほうをちらと見た。
弥勒はじっと彼女を凝視していた。
何の表情も読み取れない。
表情が消されただけで、整ったその顔立ちに得体の知れない畏怖すら覚える。
珊瑚は彼の表情から何かを探し出そうとしたが、自分をひたと見つめる弥勒の表情は完全なる無で、その瞳だけが、恐怖に怯えるような、何かにすがるような、不思議な色合いを帯びて見えた。
見つめていると胸が苦しくなる。
「ほう……」
心音ばかりが速くなり、さすがに不安になった珊瑚が呼びかけようとしたとき、すいと彼が動いた。
何の表情もないまま、深い瞳の色だけが印象的だった。
その黒曜の瞳を見つめていると、両方の肩を掴まれ、唇をあわせられた。
彼の唐突な変化に戸惑いながらも、珊瑚はそれを受け入れる。
静かな口づけのあとの彼の微笑みを思い描き、眼を閉じると、そのまま体重をかけて床に倒された。驚いた珊瑚の瞳が唖然と瞬く。
言葉を発しようと口を開ければ、法師の舌が侵入してくる。
抗議の言葉を伝える術もなくもがいていると、衿元に移動した彼の両手に小袖の合わせを押し開かれてしまった。
「ん、んん……っ?」
口づけだけで終わると思っていた珊瑚は、動転して彼の手をひっぱたき、力いっぱい彼を押しのけて身を起こす。
「なっ、何すんの、いきなり!」
いくぶん物憂げな法師は、やや不思議そうに首を傾けた。
「さっきのは抱いてほしいという意味ではなかったんですか?」
「なんでっ! そんなこと言ってない! 法師さまの力になりたいって言いたかっただけ!」
「いつでも抱いていいのでは?」
「だからっていきなり……こっちにも心の準備ってもんが……」
弥勒は大仰にわざとらしいため息をついてみせた。
「人をその気にさせておいて。全くおまえはひどい奴だな」
「その気って……! 法師さまが勝手にその気になったんじゃないか」
弥勒の視線が己のはだけた胸元から覗く胸の谷間に注がれていることに気づいた珊瑚は、慌てて衿元をかきあわせた。
「心の準備はできましたか?」
「まさか、ここで?」
夜中とはいえ、いつ誰が通るかもしれない縁先でそのような行為に及べるはずがない。
「今夜は駄目。人様の家なんだし、部屋はみんな一緒だし無理」
きっぱりと撥ねつけ、衣の乱れを直した珊瑚が法師に眼を向けると、彼は今の言葉を全く聞いていなかったように、暗い庭先に視線を放っていた。
「法師さま?」
「……庭の隅に、確か納屋があった。あそこなら誰も来ないでしょう」
独り言のようなつぶやきに、どくんと鳴る自らの心臓の音を意識して、珊瑚は大きく息を吸い込んだ。
納屋に入り、戸が閉まる音がするや否や、後ろから抱きすくめられた。
「法師さま……」
片手を腰に巻きつけられ、もう片方の手が小袖の衿を押し開き、そこから中へ忍び入ってくる。
「ちょ、ちょっと」
「今さら嫌だなどとは言わせません」
合わせから差し込まれた手にやわらかくふくらみを押さえられ、身を震わせて珊瑚はほうっとため息を洩らす。
弥勒はそのまま片手でふくよかな丘をまさぐりながら、腰を抱いていたほうの手で珊瑚の衣を脱がせにかかった。
珊瑚の足許に褶が落ち、帯が落ち、小袖が落ちた。
まとうもの全てをその身から落とされ、素肌を空気にさらした珊瑚が恥ずかしげにうつむき、弥勒に背を向けたまま両手で乳房を抱きしめると、背後で弥勒が衣を脱ぐ気配がした。
衣擦れの音がやみ、そろっと珊瑚が法師を窺い見ると、薄暗い中、白小袖一枚になった弥勒は娘を安心させるように薄く微笑んでみせた。
そして、彼女の躰を引き寄せ、納屋の一角に積み上げられた藁の上にそっと押し倒した。
「珊瑚……」
唇を重ねようと近づけた弥勒の顔が彼女の表情を見て、ふと止まる。
「珊瑚?」
依然、両手で自らを抱きしめ、胸を隠したたまま、彼女は真っ赤に頬を染めて彼を睨んでいた。
「なんで、あたしだけ裸なの?」
「はい?」
「あたしだけ全部脱がされて、法師さまは単、着てる。ずるい」
弥勒は困ったように苦笑した。
「男は惚れたおなごの全てを見たいと思うものなんですよ」
構わずに口づけようとしたが、赫い顔の珊瑚はふんっとそっぽを向いた。
「ははあ、おまえも私の全てを見たいと?」
「違っ……! そんなんじゃなくて! 法師さまは単を着てるのに、あたしだけ何も身にまとってないなんて、なんか恥ずかしい」
羞恥のため、語尾はほとんど聞き取れないほど小さくなる。
「この暗がりだ。おまえが気にするほど、はっきりと見えているわけではない」
「あたしには法師さまが見えるもの。眼はもうこの暗さに慣れたでしょ?」
「珊瑚」
弥勒はため息混じりにつぶやいた。
彼とて、一糸まとわぬ姿で珊瑚と抱き合いたかった。
肌と肌で直接互いの温もりを確かめ合いたい。
しかし、肌小袖を脱いでしまっては、暗がりとはいえ、彼女に右腕に走る瘴気の傷を見られてしまうことは必至だ。それだけは避けなくてはならない。
「では、こうしましょう」
弥勒は単の帯を解いた。
途端に白い肌小袖の合わせがはらりとはだけて、露になった男のたくましい胸元から珊瑚は慌てて眼を逸らした。
弥勒は乳房を覆う珊瑚の手をどけると、そこへ己の胸を密着させた。
「あ……っ」
胸板を乳房に押し付けられて、男の肌の感触を自らの肌で直接感じ、思わず珊瑚の唇から嬌声が洩れる。
「ほら。躰を重ねると、おまえの裸身は見えません。一枚の単を二人で使えばいい」
何かうまく言いくるめられたように感じたが、珊瑚が口を開くより早く、彼女の唇は言おうとした言葉とともに弥勒の唇に塞がれてしまった。
何を言おうとしたのか、すぐに忘れた。
眼を閉じた珊瑚は自由になった両手を弥勒の肌小袖の中に滑らせ、衣越しではなく、じかに彼の背中を抱きしめた。
* * *
何度抱いても、珊瑚は初々しさを失わない。
いつも、初めて彼女に触れたような錯覚に陥らされる。
彼女に彼を受け入れる準備が整ったことを確認すると、弥勒はゆっくりと珊瑚の中へと押し入った。
「う……ん……」
固く眼をつぶり、彼の侵入に耐えていた珊瑚は、彼が深奥まで己を沈め、一度動きを止めると、薄く眼を開けて密やかな吐息を洩らした。
「つらいか?」
「ううん……法師さまの肌に触れていると、すごく安心する」
ささやくように言い、彼の背中に廻した腕にぎゅっと力を込めた。
「こうしてると、法師さまの匂いや体温や心臓の音がじかに伝わってくるね」
「そうだな。おまえの全てを感じる」
「なんだか、法師さまを独り占めできたようで嬉しい」
「私はいつでもおまえのものだが?」
弥勒は豊かな乳房をすくいあげるように揉みしだき、その頂点を唇と舌で愛撫した。
「はあっ……」
白い肩から胸元にかけても口づけの雨を降らせる。
そうして、繋がったまま、しばらく焦らすような愛撫を続けていると、珊瑚が切なげに身をよじらせた。
「法師さま、お願い──」
双丘を弄びつつ、弥勒は珊瑚と唇を重ね合わせる。
彼女の全てが甘美だった。
刹那の快楽を求めるのではなく、彼女という存在を感じることで心が満たされる思いがする。
自分以外の男を知らない珊瑚がこの行為をどのように思っているのか不安だったが、安心する、という彼女の言葉がさらに弥勒を満たし、安堵させた。
少しでも長く彼女と繋がって、五感全てで彼女を感じていたい。
「いいか?」
微かに珊瑚がうなずいた。
ゆっくり動き始めると、珊瑚は悩ましげに眉根を寄せ、熱い吐息を洩らす。
そんな彼女の姿態に煽られ、徐々に律動の速度をあげていくと、紅い唇から吐息とともに小さな喘ぎがこぼれ始めた。
「珊瑚。声、我慢しなくていい」
「だっ……て、恥ずか……しい」
それでも、弥勒によって官能を知った珊瑚は、次第に快楽の波に呑まれていき、きゅっと彼にしがみつくと耐えかねたようにあえかな声を上げ続けた。
二人同時に高みに昇りつめると、珊瑚はそのまま眠りに落ちた。
すやすやと安らかな寝息を立てる珊瑚の表情には、もう悪夢に怯える翳はなかった。
二人で浸った甘いひとときの余韻は、おまえに安らかな夢を見せるだろうか。
人とは弱いもの。けれど、おまえとともにあるから強くなれる。
魂の深いところで互いが互いを必要としている。
弥勒は、珊瑚の胸元に散らばる朱い花ひとつひとつを辿るように、そこに静かに唇を落としていく。
こうして抱きしめていて、それで珊瑚が安心するなら、一晩中でも彼女の眠りを守ってやりたい。
同じだけ、否、それ以上、自分も彼女に癒されているから。
母屋へは夜が明ける前に戻ればいいだろう。
二人分の衣を身体の上に掛け、弥勒は眠る珊瑚を抱きしめた。
「ほう……し、さま──」
微かに身じろぐ彼女の唇から小さく洩れた寝言に微笑みながら、彼女の瞼に口づける。
「おやすみ、珊瑚」
そして、法師も静かに眼を閉じた。
〔了〕
2008.3.6.