ベアトリーチェ
梢を風が吹き抜ける。
樹の上で眠るでもなく眼を閉じていた犬夜叉は、誘われるように薄く瞼を開いた。
風が銀の髪をゆるやかにそよがせる。
愛しくて哀しい、かの人の手に触れたようだ。
(桔梗──)
ぼんやりと物思いにふけるとき、いつも浮かぶ巫女姿。
彼女のことを思うと、今でもたまらなく胸が苦しくなる。
奈落との闘いが終わって、弥勒も珊瑚も七宝も新しい生活を営み始めているのに、前へ進むことができない彼は、自分だけが取り残されているように感じていた。
それでもなお、桔梗への想いは熾火のようにくすぶり続ける。
今ここで、健やかに呼吸をしている己の存在が罪ではないかと思うほどに。
樹上から飛び降り、犬夜叉は社のほうへ向かった。
そこには今も桔梗の祠がある。
遺骨も形見の品も、何も納められていないが、桔梗の祠には違いない。彼女が確かに存在したという証しだ。
祠の前には先客がいた。
「あ……」
犬夜叉の気配に気づいた娘が振り返る。
「犬夜叉」
「珊瑚……おまえ、こんなところで何してるんだ?」
祠の前に、一人たたずむ珊瑚のほうへと近づきながら、犬夜叉は問うた。
「お参りに」
「へ?」
「そんな顔しなくてもいいじゃないか」
珊瑚はややきまりが悪そうに、犬夜叉から目を逸らした。
「桔梗はあたしの恩人だから」
「でも、おまえは……」
琥珀の生命を繋ぐ四魂のかけらを使おうとした桔梗に、彼女は反感を抱いていたはずだ。
「言いたいことは解ってるよ」
珊瑚は瞳を伏せた。
「確かにあたしは、琥珀のかけらを使おうとしていた桔梗をよく思っていなかった。でも、結果的にあたしは法師さまと琥珀と、大切な人の生命を、二つも救ってもらってるんだ」
「……桔梗は、当たり前のことをしただけだと言うだろうな」
あるかなきかの風が、犬夜叉の髪をそよがせる。
風になびく銀色の髪が、何か特別に美しいもののように感じられて、珊瑚は我知らず目を奪われた。
「そうかもしれない。もし、もう一度同じことが起こったら、たぶん、あたしはまた桔梗を責める。でも、桔梗が琥珀を冷たく切り離そうとしたんじゃないことだけは解ってるよ」
彼女は儚げに微笑した。
「それに、あたしには桔梗を責める資格はない」
ふと、犬夜叉は珊瑚を見た。
珊瑚は毅然としていたが、彼女が背負うものを犬夜叉は知っている。
りんを犠牲にしてでも法師を助けたかったことを、珊瑚は犬夜叉にだけ、告白していた。
弥勒には言えない。
言えば、珊瑚の動機に責任を感じ、彼は彼自身を激しく責めるだろうから。
全てが終わったあと、裁きを求めた珊瑚に対し、殺生丸は「必要ない」とだけ告げ、立ち去ったのだ。
「……過ぎたことだ」
犬夜叉はふいと空を見遣る。
桔梗はもういない。
その事実が変わることはない。
珊瑚は控えめに、気遣わしげに犬夜叉を見た。
「あんたが今も桔梗を想っていることは知っている」
「……」
「桔梗を無理に忘れる必要はないと思うよ」
言い様のない気持ちに駆られ、犬夜叉はたまらずに珊瑚に背を向けて、苦しげに宙を睨んだ。
桔梗を想い続けていては、先へは進めない。
それが怖くて──けれど、桔梗の面影が己の中の“今”という時間から消えてしまうことは、もっと怖くて。
「犬夜叉。今、ちょうど、琥珀がうちに来ているんだ。撃剣の相手をしてやってくれると嬉しい。お礼に夕餉をご馳走するよ」
「……」
「あたしよりも、琥珀のほうが、あんたのいい話し相手になると思う」
背を向けたままの犬夜叉を残し、珊瑚は静かにその場をあとにした。
「……」
風が頭上を渡っていく。
愛しい人の気配が通り過ぎたように。
不意に激しい感情に襲われ、今にも嗚咽がこぼれそうになり、犬夜叉は片手で口を覆った。
かごめは生きている。再び会える可能性もある。
だが、桔梗は死んだのだ。
この先、桔梗に出会うことは決してない。
「桔……梗……」
何故、信じ続けることができなかったのだろう。
五十年前、桔梗を信じ続けていれば、少なくとも、憎しみ合って別れる結果にはならなかったはずだ。
犬夜叉は地面に膝をつき、片手で口許を覆ったまま、ひたすら嗚咽を耐えた。
込み上げる涙をどうすることもできなかった。
この胸の大きな塊を吐き出してしまわなければ、息ができない。
崩れるように両手を地につき、彼は地面を睨んだ。
悲しみと、愛しさと、己への腹立たしさとが入り乱れ、どうしようもなく彼を責め立てる。
誤解が解けたとき、彼女はすでに死人だった。
触れ合う唇はいつも冷たい。
たとえ彼女が生ける死者でも、もう少しだけ長く、そばにいて愛していたかった。
巫女だから。死人だから。
禁じられた恋というならば、結ばれなくても構わない。
ただ、そばにいて、見つめ合うだけでよかったのだ。
彼女が最期に見せた、あの微笑みをもっと見せてくれるなら。
「……っ」
世界が輪郭を失った。
涙はあふれ、こぼれて地面に黒い染みを作る。次から次へと、つきることのない慟哭を誘発する。
どうして涙は涸れないのだろう。
この世でただ一人の人を喪ったというのに。
(桔梗──)
愛している。
愛していた。
これからも、彼女は彼の意識の神聖なる部分に住み続ける。
だから、彼は、彼にできるただひとつのことをする。
彼女を久遠に愛し続ける。
初恋の人、永遠の恋人、神聖なる女性。
ただ一人のかけがえのない人。
彼女は彼の、“ベアトリーチェ”だから。
〔了〕
2013.12.21.
(犬夜叉と珊瑚の会話内容の補足)