萩の章

 勝手知ったる師匠の寺。
 幼い頃を過ごした夢心の寺にずかずかとあがりこんだ弥勒は、庫裏へ寄ってから、まっすぐ本堂へと向かった。
 すでに日は落ち、辺りは薄闇である。
「ああ、やはりここでしたか」
 本堂に安置されている御本尊の前に、弥勒の師匠である夢心が、いつものごとく大きな徳利を片手に床に転がり、大鼾をかいている。
「夢心さま。弥勒です」
「……」
「夢心さま! み・ろ・く・ですっ」
「……」
「いい加減に起きやがれ、このっ!」
 両手にこちらも徳利を抱えていた弥勒は、無造作に足で師匠を蹴飛ばした。
「んあっ!?」
 いい気持ちで寝ていたところを乱暴に起こされ、のろのろと身を起こした夢心が背後を振り返ると、最上の笑みを浮かべた弟子が立っていた。
 自らの蛮行をいささかも省みることなく、弥勒はにっこりと挨拶を述べる。
「弥勒でございます。夢心さまにはお変わりなく、お元気そうで何より──
「おまえ、こんな宵に何しに来たんじゃ」
「よい酒が手に入ったので、持ってまいりました。ちょうど仲秋。月見酒など如何です?」

 弥勒は濡れ縁に灯明をしつらえ、数本の徳利と盃を二つ、用意する。
 縁に座すると、ちょうど昇ったばかりの月と、寺の裏庭に咲き乱れる萩の花が秋の風情をかもし出していた。
 さやさやと心地好い風が吹き、虫の声もまた、耳を楽しませてくれる。
 しみじみとした情趣を満喫するにはうってつけの夜だった。
「夢心さま、お酒の用意ができましたよ。月はここからの眺めがやはり一番ですね」
「ほお。おまえもなかなか気が利くようになったのう」
 縁にやってきた夢心は弥勒に促されるまま徳利と盃を手に取り、さっそく手酌で呑みはじめた。
「肴はないのか?」
「今日、近在の村で里芋をいただく約束をしてきましたので、明日、取りに行きます。今日は酒を運ぶだけで手一杯でしたので」
 その言葉に夢心は、ん? と首を傾けた。
「おい、弥勒。十五夜は明日ではなかったか?」
 見上げる月は、円に近いものの、完全なる円形ではない。
「そうですよ。今宵は待宵です」
「一日間違えて来たか」
「間違えてません。明日は朝から団子を作って、いただいた里芋をゆでて……とにかく準備がありますので、今夜はこちらに泊まらせていただきます」
「ほう、明日の分も酒を持ってきたか」
 確かによい酒であった。
 夢心はご機嫌でくいっと盃をあおる。
「もちろん、酒も肴も夢心さまの分もありますが、明日は私は本命と呑む予定ですから、邪魔しないでくださいね」
「……わしはついでか?」
 ほうっとため息をつくも、さほどがっかりした様子もなく、夢心はゆったりと酒をつぐ。
「して、本命とは?」
「そりゃあ、若くて美しい娘に決まってるでしょう」
 弥勒も月を眺めながら、己の盃に酒を注いだ。
 本命だという娘を愛でるような瞳で、待宵の月を仰ぎ見る。
「わざわざこの寺に呼んだのか?」
「ええ。私の知る限り、ここが一番静かでゆっくりと月を眺められますからね」
「珍しいこともあるもんじゃ」
 おまえがおなごをこの寺に呼ぶなんてな、と夢心は独りごちた。
「どんな娘だ?」
「夢心さまもご存知の娘ですよ」
「ほう?」
 じいっと問うような眼を向けられ、弥勒はしぶしぶといった口調で、
「退治屋の娘です」
 と白状した。
「ああ、あの、勇ましい娘さんか」
 ちらりと弥勒の様子を窺うと、火影のせいか、心もち、その頬が赫い。
「で?」
「なんです」
「惚れとるのか?」
「……さて──
 弥勒にしては珍しく、歯切れが悪い。
 老僧はほっほっと屈託なく笑った。
 他の者ならいざ知らず、幼い頃から彼を知る夢心には、隠すことなどできはしない。
 照れていると見える若い法師を、夢心は微笑ましげに眺めやった。
 しばらくの沈黙の後、ようやく、弥勒がぽつりと言った。
「……私の子を産んでくれると約束してくれました」
「おまえ、だれかれ構わず約束しておるのではないのか?」
「……」
 からかうように話をまぜかえす師匠を、弥勒は恨めしげに横目で睨む。
 せっかく真面目に報告しようと思ったのに、とむっとなった心情が素直に表情に表れてしまった。相手が夢心であればこそである。
「ほっほっほ。冗談じゃ。あの娘とは将来をともにすると誓ったんじゃろ」
「そうです。あの娘となら──って、なんで夢心さまが知っているんですか」
 今まではぐらかすように曖昧な返事しかしない弥勒だったが、夢心は彼と珊瑚が夫婦になる約束をしていることを知っていた。
「口の軽い狸が一匹おるからの」
「ハチの奴……」
 盃の酒をあおり、そうつぶやきつつも、弥勒の口許には微笑が揺蕩っている。
 月影を受けて仄かに揺れる萩の花をその瞳に映しながら、弥勒はぽつりぽつりと語り出した。
「最初は遠くから眺めているだけでよかったんです」
 月を愛でるように。花を愛でるように。
「思わぬ悲劇に見舞われてしまったあの娘が併せ持つ、強さと脆さに同時に惹かれました。私が護ってやりたいと思った。しかし、このような呪われた定めを持つ身ではあの娘を幸せにしてやることなどできはしない」
 弥勒の視線が右掌に落ちる。
「だから、自分も、珊瑚も欺こうとしました」
 夜陰に仄白く浮かび上がる端整な顔に、自嘲とも苦笑ともつかぬ笑みが漂う。
「けれど、珊瑚のひたむきさ、純粋な想いがまっすぐ私に向けられていると意識すればするほど、己を誤魔化すことが難しくなりました。……珊瑚には敵いません」
 黙って酒を舐めていた夢心がちらと弥勒を窺うと、彼の眼にはやさしい微笑が揺らめいていた。
「気がついたら、私とともに生きてほしいと口にしていました。あのときの珊瑚の顔は、今でも眼に焼きついています」
 弥勒は左手に持っていた盃をことりと床へ置いた。
「あの娘を縛ることになってしまった。そこに迷いがないわけではありません。ですが、ともに生きたいと願うもまた、私の本心です」
「……そうか」
「我ながら呆れます。珊瑚に想いを告げてからというもの、彼女への想いは日ごとに増すばかり。私が一人のおなごをこれほど愛することができようとは思いもしませんでした。今は珊瑚を他の誰にも渡す気はありません。私がこの手で護り抜きます」
 彼の心を生へと、未来へと向けた娘。
 それほどの葛藤を経てなお、ともにありたいと望む娘がいるなら、弥勒は徒に自らの死期を早めるような無茶な真似はしないだろう。
 夢心は微かな笑みを浮かべ、安堵したように吐息をついた。
 弥勒の覚悟は夢心の想像すら超えていたが、穏やかな彼のその表情からは、そこまで窺い知ることはできなかった。
「明日は、その退治屋の娘がここへ来るわけだな?」
「はい」
「若い娘の酌で酒が呑めるのか。楽しみだのう」
 感慨深げに、孫に嫁を迎えるような心持ちでつぶやきを洩らした夢心だったが、
「呑めませんよ」
 あっさり、弥勒に否定された。
「何故だ?」
「珊瑚は私と呑むんですから。邪魔しないでくださいと言ったでしょう。そうだ、若い娘に酌をしてほしいなら、ハチに頼んで化けてもらいましょう」
 呆れ果てた眼で弟子を眺め、夢心は、はああ、とため息をつく。
「弥勒……おまえという奴は──
 それでも、可愛い弟子とこんなふうに酒を酌み交わせるひと時は、この上なく楽しいものだった。
 生まれながらに背負う運命に押し流されることなく、強く生きてほしい。
 その手に穿たれた呪いに打ち勝ち、平凡で平和な未来を手に入れてほしい。
 彼に大切なものがあることが、彼が未来を見つめていることがことのほか嬉しく、温かいものが夢心の心に静かに染み渡っていった。
 夜風がそよぐ。
 月明かりの下で萩が可憐に揺れている。
 今宵の月は、格別に美しい。

〔了〕 葉隠れの章

2007.9.20.

我妹子が やどの秋萩花よりは 実になりてこそ恋ひまさりけれ
(作者未詳)