松葉の章

 いくぶん、居心地が悪そうな曖昧な表情で、珊瑚は目の前の青年をちらと見た。
 珊瑚の視線に気づいた青年は、にっこりと魅惑的な笑顔を作る。
 ――青年は、弥勒ではない。

 一昨日から世話になっている屋敷の裏庭でかごめが井戸から汲んだ水をペットボトルに入れていると、不機嫌な弥勒がやってきた。
「かごめさま、珊瑚を知りませんか?」
「さっき、葉助さんが来て、つれてったわよ」
 弥勒は苛立たしげにため息をついた。
「今日もですか」
「これも人助けよ、弥勒さま」
 かごめは困ったように苦笑した。が、彼女がこの状況を面白がっているのは明らかだ。
 何しろ、弥勒と珊瑚、二人の立場がいつもと逆なのだから。
「約束では昨日一日だけということだったではないですか」
「葉助の絵がまだ仕上がっておらんのじゃろう」
 かごめの傍らにいた七宝が、尤もらしく言う。
「何日もここに逗留しているわけにもいきません。犬夜叉だって、先を急ぎたいはず」
「まあ、あたしたちもただで泊めてもらって、食事までご馳走になってるんだから、お礼くらいしなくちゃ。珊瑚ちゃんがいいって言ってるんだからいいんじゃないの?」
 ねえ? と、かごめは七宝と顔を見合わせてにこっと首を傾げる。
「葉助さんってちょっと格好いいから、弥勒さま、心配なんでしょう。でも、大丈夫よ。真面目そうな人だし」
「何が真面目なものですか。二年前、絵師になりたいと言ってふらりと家を出て、一昨日、また、ふらりと家に舞い戻ってきた放蕩者ではないですか」
「弥勒さま、そんな内情をどこから?」
「村のおなごたちからですが」
 かごめは、はあっとため息をついた。

 旅の途中、道々一緒になった旅装束の青年が、自分の村が近いからと、犬夜叉たちの一行を自宅へ招いてくれた。
 それはいいのだが、葉助というその青年が、珊瑚の絵を描かせてほしいと言って昨日から珊瑚を独占しているものだから、弥勒は不機嫌この上ない。
 さわらぬ神になんとやら……と、そんな弥勒の八つ当たりを一行の誰もがさけている有様だった。
 断る理由もないので珊瑚は承諾し、昨日一日、葉助につきあって絵のモデルになったが、もう少しいろいろ描きたいからと言われ、二日目の今日も連れ出されていた。
 昨日と同じ、広い景色が見渡せる崖の上に腰を下ろし、珊瑚は青年と向かい合っている。
 絵を描くためだと解っているのだが、じっと自分に向けられる青年の視線が気恥ずかしかった。
「……あの、訊いてもいいかな」
「いいよ。なに?」
 裕福な屋敷の一人息子である葉助は、気安さの中にも育ちの良さが滲み出ている。
 好ましい若者には違いないが、こうして一対一で向き合っていると、どうにも珊瑚は落ち着かなかった。
「なんで、あたしなんか描こうと思ったの?」
「美人を描きたいってのは自然な欲求じゃないか?」
「それなら、あたしよりかごめちゃんのほうが」
「あの巫女さんも可愛いけど、珊瑚が、おれの好みだからさ」
 葉助は昨日から何枚も珊瑚の姿を墨で紙に描いていた。その一枚を彼女に見せる。
「ほら、別嬪さんだろ?」
 珊瑚は赫くなってうつむいた。
 昨日、彼のことをいろいろと聞いた。
 どうしても絵師になりたくて、二年前、十五のときに家を飛び出し、都にのぼって修行したが、己に絵の才がないことを悟ったのだと彼は言った。
 そして、生まれ故郷に帰る途中、珊瑚たちに出会ったのだ。
 二年ぶりに戻ってきた息子の姿に驚き喜ぶ、一昨日の夜の彼の両親の様子を珊瑚は思い返した。
「珊瑚。おれが昨日言ったこと、考えてくれたか?」
「ごめん。昨日も言ったように、あたしは……」
 珊瑚が言い終わる前に、葉助は言葉を続けた。
「あんたの旅が終わるまで待つからさ。おやじも、おれが身を固めて家を継ぐことを望んでいる。絵は趣味でやる決心もついた」
「でも、葉助さんなら、あたしじゃなく、もっと相応しい人がいるよ、きっと」
「おれ、面食いなんだよ」
 葉助は屈託なく笑った。
「それに、都で苦労もしたから、人を見る目はあるつもりだ。あんたがおれのところに嫁にきてくれたら本当に嬉しいんだけどな」
「……」
 さりげなく眼をそらせる珊瑚を見て、軽くため息をつき、葉助は絵筆や紙を片付け始めた。
「やっぱり、法師さまか」
「えっ?」
 驚いて顔を上げる珊瑚に、葉助は悪戯っぽい笑みを向けた。
「おれが珊瑚に声をかけたり近づくたびに、ものすごい眼で睨むんだもんな、あの人。恋仲なのか?」
 一瞬、躊躇したが、珊瑚は黙ってうなずいた。
「そうか」
 画材を収めた小さな葛籠を抱え、葉助は立ち上がる。
 崖の上から眺める風景は、眼下にのどかな田畑が広がり、頭上には蒼穹が果てしなく続く。
 その崖のきわに古い松の木が誇らしげに枝を伸ばしていた。
「なあ、珊瑚。見事な枝ぶりだろう?」
「うん。立派な松だね」
「いいこと教えてやろうか」
 松の古木の枝の下へ、青年は娘を手招きした。
「この松は願掛けの木なんだ。本当は、おれが珊瑚とここで願掛けをして、珊瑚のこと待っているって言いたかったんだけど……」

 そろそろ、珊瑚たちも一旦屋敷へ戻ってくる時刻だろう。
 そう見当をつけながら、相も変わらず、弥勒は村の娘たちを集めて手相を見ていた。
 娘たちから聞いた話を総合してみると、葉助という青年は、家を出て都に行く前から村での評判もいいようだ。
 娘たちは、みな一様に葉助の帰郷を喜んでいる。
 大きな屋敷を構える物持ちの家の一人息子で、風采もよく独り身というのも、嫁入り前の娘たちの憧れを集める所以であろう。
「あ、噂をすれば。葉助さんよ」
 娘の一人が眼を向けたほうへ視線を投げれば、法師の苛々の原因が二人、連れだってこちらへ歩いてくるところであった。
 思わず手相見をしていた娘の手を強く握りしめてしまい、「やだ、法師さま」とその娘に艶っぽい眼で見つめられた。
 それには動じるふうもなく、「よい手相をしておいでです」と法師はにこやかに応じる。
 一方、珊瑚のほうも村娘たちに囲まれた弥勒に気づいた。
(何あれ。あたしがいないのをいいことに、また臆面もなく女の子集めちゃってさ)
 あまりにも見慣れた光景とはいえ、むしゃくしゃするのはどうしようもない。
 表情を作ることもできず、むすっとしていると、不意に手を取られ、驚いて隣を歩く青年を見た。
「このくらいはいいだろ? 法師さまを妬かせてやりたいしな」
 自分たちのわきを通り過ぎる際ににっこりと会釈をした葉助が珊瑚と手を繋いでいることに、弥勒の怒りは頂点に達する。
(一宿の恩くらいでいい気になりやがって……! 一度絵を描いたくらいで珊瑚の亭主気取りになるんじゃねえ!)
 互いに何事もなかったようにすれ違った弥勒と珊瑚だったが、その心中はどちらも嵐が吹き荒れていた。

 午後になって、再び屋敷を出てどこかへ出かけようとする珊瑚を、弥勒が呼びとめた。
「あの男と、このあとも約束があるんですか?」
 不機嫌なその声の響きに、珊瑚もむっとした視線を返す。
「法師さまは? 村の娘たちと手相を見る約束でもしてるの?」
「私はおまえがろくでもない男に騙されてはいけないと、おなごたちから葉助どのの評判を聞いていたのです」
「でも、あんなにきゃあきゃあ言われてさ。法師さまだって、まんざらでもなかったんだろう?」
「私のことはどうでもいい」
 いくら冷静を装ってもどうしようもない怒りが腹の底から込み上げ、口調が荒くなる。
 弥勒は珊瑚の腕を掴み、人目につかない場所に移動した。
「おまえはあんな優男が好みなのか」
「法師さまだって、見た目は優男の部類に入るじゃないか」
「話をそらすな。絵を描くなどと言って、あの男と何をしていた。手を握りあって帰ってきただろう」
「法師さまに人のことが言えるの? よく知らない相手だろうが、いつも、しょっちゅう、すぐに、女の手を握るくせに」
 それを言われては返す言葉のない弥勒だが、なおも辛抱強く食い下がった。
「おなごのおまえと男の私では話が全く違ってくる」
 私以外の男に手を握らせるな、と怒鳴る代わりに底冷えのする声で言った。
 珊瑚は小さく吐息をつく。
「……あのね。嫁にこないかって言われたんだ」
「え――?」
 弥勒はいきなり頭を殴られたような衝撃を覚えた。
 容姿も性格もよく、村娘の話を聞いている限り、文句のつけようがない若者だ。
 珊瑚を幸せにできるかもしれない男の突然の出現に愕然となる。
 珊瑚は法師がそれに応えて何か言うのを待っていたが、ひと言も発しない彼に、ちらと瞳に哀しげな色を浮かべた。そして、彼の腕を引っ張った。
「ねえ、法師さま。一緒に来てほしいところがあるの」

 珊瑚が彼を連れていった場所は、見晴らしのいい崖の上であった。
 一面に広がる風景に松の古木が重厚さを添えている。
「ここで、昨日も今日も、絵を描いてもらってたんだ」
 下から吹き上げてくる風に頬にかかる額髪を押さえ、珊瑚は崖の途中に根を張っている松の古木を覗き込む。
 背後から自分を見つめる法師の視線を痛いほど感じながら、珊瑚は努めて明るく言った。
「葉助さんのこと、いろいろ聞いた。やさしくて、思いやりがあって、しっかりした人だと思う」
「……そうか」
 威風堂々と枝を伸ばした松の枝先に手が届くところまで、珊瑚はゆっくり歩いていった。
「あのね、この松の枝を結ぶと、どんな願いも叶うって言い伝えがあるんだって」
「葉助どのと一緒に結んだのか?」
「法師さま、どうして……」
 どうして、他の男のところへは嫁にいくなって、言ってくれない――
 珊瑚は哀しげに首を振る。
「葉助さんとは結んでないよ。あたしは旅を続けなきゃならないし、それに」
 珊瑚は一旦言葉をとめ、大きく息を吸った。
――あたしには大切な人が、もう、いるから」
 はっとした弥勒が、背を向けた珊瑚に近寄ろうとして、躊躇い、足をとめた。
 錫杖の六輪がしゃらりと揺れる。
「そう言ったら、葉助さんも解ってくれた。あたしは、あたしの大切な人と松の枝を結べばいいって。そうすれば願いが叶うよって言ってくれた」
 柄にもなく動揺した。
 ざわつく気持ちを持て余し、動けずにいる法師を振り返った珊瑚が、潤沢な瞳でじっと彼の顔を見つめた。
「あたし、法師さまと松の枝を結びたいの。一緒に、結んでくれる?」
 旅の安全を。法師さまの長寿を。幸せが訪れることを、ここに祈願して。
 色褪せることのない常緑は永遠の象徴だから。
 とこしえにあなたを愛することを、誓います。
 しばらく探るように彼の表情を見つめていた珊瑚は、うるさいほどの鼓動を抑え、やがて、乞うように眼を閉じた。
 法師は娘に近づき、その頬にそっと手を伸ばす。
 彼女の幸せをいつでも願っている。
 そして、呪われた手を持つこの身でも、彼女が自分を選んでくれるなら――
「珊瑚。私はおまえを……おまえだけを……」
 唇に吐息がかかり、愛しさに胸が震えた。
 ぎゅっと抱きしめられ、彼の背中を抱きしめ返す。

 変わらぬ想いを、この唇にのせて。

 変わらぬ愛を、今、君に誓おう――

〔了〕 思い草の章

2009.1.26.

八千草の花は移ろふ常盤なる 松のさ枝を我れは結ばな
(大伴家持)

松の枝や草を結ぶという風習は、幸せや安全や長寿などを祈る意味合いがあったそうです。