紅珊瑚の姫 −第一話−
まだ、たったの二日だ。
厳密にいえば、まだ二日も経っていない。
それなのに、ここに彼がいないだけで、何故こうも大切なものをどこかへ置き忘れたような気分になるのだろう。
留守居を頼まれた楓の家で、立ったり座ったり、そわそわとその辺を歩き廻ったり。
珊瑚は何をしていても落ち着かない。
七宝と雲母は近くで遊んでいるはずだ。
ふと思いついて、珊瑚は井戸のところまで足を運んだ。
(そろそろ、かごめちゃんと犬夜叉が帰ってくるはず)
そうしたら、二人に留守番を代わってもらい、法師さまを迎えに行こう。
珊瑚は井戸の前に座り込み、かごめの帰りをただひたすら待った。
「なんでい、今回の大荷物は。いつもの倍以上あるじゃねえか」
「ごちゃごちゃ言わないの。これは珊瑚ちゃんのために特別……って、あれ? 珊瑚ちゃん?」
井戸の中からひょいと顔を出したかごめは、地面に座り込んで立てた膝に肘をつき、両手で頬杖をついてこちらをじーっと凝視している退治屋の娘といきなり目が合い、ぎょっとしたような表情を作った。
「ど、どうしたの、怖い顔しちゃって……弥勒さまとなんかあった?」
「何もない。かごめちゃんたちを待ってたんだ」
「……?」
小首を傾げるかごめに、立ち上がった珊瑚は手短に状況を説明する。
三日前、かごめが犬夜叉と現代に行ってからほどなく、楓に遠方の知己を訪ねる用ができ、弥勒と珊瑚にしばらく留守を頼むと言って出掛けてしまったこと。
その翌日、別件で楓のもとを訪れた者があり、あいにく巫女は不在だったが、弥勒で代理が務まりそうな用件だったので、弥勒もまた、珊瑚に留守宅を頼み、使いの者と別の町へ出掛けてしまったこと。
日帰りできる距離ではなかったため、楓も弥勒も、まだ帰宅していない。
「えっと、だから、つまりその……」
そこまで説明して、視線を彷徨わせ、珊瑚は言いよどんだ。
「解ったわ。珊瑚ちゃん、弥勒さまの帰りを待ちきれないんでしょう。いいわよ。お留守番、代わるから、珊瑚ちゃんは弥勒さまを迎えに行ってきて」
「いい? ありがとう、かごめちゃん」
幾分恥ずかしそうに、だが、ぱっと表情を明るくする珊瑚に、かごめは含みのある笑みを向けた。
「その代わり」
「おい、かごめ。早く井戸から出ろ。後ろつかえてんだからよ」
「あ、ごめん」
黄色いリュックを背負ったかごめは、身軽に井戸を出て珊瑚に近づくと、彼女の顔を覗き込んだ。
「あたし、珊瑚ちゃんに着てほしいものがあるんだ」
「着てほしいもの?」
「うん。今、持ってきてるから、それ着て弥勒さまを迎えに行ってよ。ね?」
にっこりと愛らしい笑顔を向けられ、よく解らないままに珊瑚は曖昧にうなずいた。
「やった。犬夜叉、それ、楓ばあちゃんの家まで運んでね」
「今日はすごい荷物だね。何それ?」
井戸から出てきた犬夜叉が抱える大きな四角い鞄を指差し、珊瑚は怪訝な声で問う。
「知らねえよ。ったく、こんな余計なもん運ばせやがって──」
「余計じゃないわよ。せっかく珊瑚ちゃんに似合うと思って持ってきたんだから」
それが“あちらから”持ってきた衣裳らしいことに気づき、珊瑚の表情が、いささか、強張る。
「あの、あたしに着てほしいものって、かごめちゃんの国の着物……?」
珊瑚の視線が己の短いスカートに向けられていることに気づき、かごめは苦笑する。
「ああ、安心して。今日、持ってきたのは普通の着物だから。洋服はまた今度ね」
「……」
かごめが言うところの“普通の着物”と“洋服”との違いがいまひとつよく解らない珊瑚は、やや戸惑ったように、茫洋とした表情を浮かべるばかりだった。
犬夜叉に荷物を運んでもらったかごめは、楓の小屋の中でそれを開けた。
「わ……」
珊瑚の瞳が大きく見開かれる。
「これ、かごめちゃんの着物? 国ではこういうの着てるの? あ、でも小袖とは少し形が違うね。もしかして、これ打ち掛け?」
「違う違う。あたしの世界じゃ、打ち掛けなんて花嫁さんしか着ないわよ」
かごめが持参した白地の着物は、左肩の部分や両の袂、上前・下前に赤や緑や梔子色で柳が芽吹いている模様が描かれていた。
模様の入り方は付け下げに分類されるが、意匠があっさりしているため、格式ばった感じはなく、むしろ可憐で楚々とした印象を受ける。それでも、珊瑚の目にはかなり豪奢な品として映った。
「綺麗……絹だよね」
庶民の衣は麻が主流のこの時代だ。
特殊な生業の家庭に育った珊瑚は高価な絹の小袖や反物などを目にする機会もあったが、自ら手を通す小袖は質素な麻のものしか知らない。
華やかな着物を珍しげに手に取って眺めている。
「じゃあ、さっそくだけど着てみて? ふふ、ちゃんと着付けの本も持ってきたんだ」
「駄目だよ、こんな高価なもの、着られないよ」
「だって珊瑚ちゃんにあげようと思って持ってきたのよ。それに、高価なものじゃないから安心して。言ってしまえば、人のお下がりで中古だから」
「でも、かごめちゃんのだろう?」
「うーん。あたしのっていうか、ママの友達があたしにどうかってくれたんだけど、この柄、あたしより珊瑚ちゃんのほうが似合いそうでしょ? だからね、帯とか草履とかもママと一緒にコーディネートして、一式そろえてきたの」
それで、この大荷物。
珊瑚は圧倒されて着物やら帯やらその他の小物やらを見た。
「さっ、着付け始めるわよ。犬夜叉は外に出ててね」
すっかりやる気のかごめは、犬夜叉を小屋の外に追い出し、ぴしゃりと戸を閉めた。
荒っぽい生業のせいもあってか、普段は自ら身を飾ったりはしない珊瑚だが、そこは年頃の娘。
異国の美しい衣裳に興味深げに見入っている。
かごめが持参した本を頼りに、二人は着付けに取りかかる。
「肌襦袢は持ってきてないの。珊瑚ちゃん、自分のがあるわよね?」
「肌……じゅばん? 肌小袖のこと?」
「うん、そう、かな。その上にこの長襦袢を着て──そうそうそんな感じ」
珊瑚の長い髪をとりあえずヘアクリップでまとめ、二人掛かりで丁寧に着付けを進めていった。
「ねえ、帯の幅がすごく広いけど。かごめちゃんの国の帯って、みんなこんななの?」
「半幅帯っていうのよ。本当はこの倍の幅がある帯を半分に折って使うの」
「へえ」
滅紫の小巾袋帯を、珊瑚の胴に巻き、かごめはそれを花文庫に結んだ。
「ふう。我ながら上出来。練習した甲斐があったわ」
「あの、何となく緊張するね」
ぎこちなく言う珊瑚を、かごめは座らせた。
「次は髪ね。珊瑚ちゃんの髪、長いからおろすと帯が隠れちゃうけど、どうしようかな。いつもと違うイメージで、弥勒さまを驚かせてみたいし」
初めて見る着物に夢中になっていた珊瑚は、そこでようやく、この格好で弥勒を迎えに行くことを思い出した。
「あの、やっぱりいい。こんな綺麗なもの着て、緊張して動きづらいし、法師さまを迎えに行くの、やっぱりやめにする」
「なに言ってんの。弥勒さまに一番に見せなくちゃ駄目でしょー?」
にわかに怖気づいたようになる珊瑚をくすくす笑って軽くいなしながら、かごめは彼女の髪を手際よく梳き、まとめていった。
両サイドの髪の一部をすくって後頭部でまとめ、拳よりひと回りほど小さな丸い髷を作る。残りの髪はそのまま背に垂らした。
「ほら、珊瑚ちゃん、これ見て?」
珊瑚の背後からかごめが差し出したものは、紅い玉簪だった。
「綺麗な色。あ、この玉──」
「うん。珊瑚の簪よ」
そう言って、かごめは珊瑚の後頭部の小さな髷に紅珊瑚の玉簪を斜めに挿した。
「これだけはね、ママのなの。珊瑚ちゃんと同じ名前の簪だから、借りてきちゃった」
そして、すっかり仕度が整った珊瑚を立ち上がらせる。
「うん、ほら。やっぱりすごく似合うわ。まずは犬夜叉と七宝ちゃんに見せに行きましょ?」
嬉しそうなかごめは会心の笑みを浮かべ、珊瑚を促して外へ出た。
「ねえ、見て見て。珊瑚ちゃん、お姫様みたいでしょう?」
小屋の外へ出たかごめは、すぐに半妖の少年と仔狐の姿を見つけ、声をかけた。
「は、恥ずかしいよ、かごめちゃん」
「いいじゃない。ほんとに綺麗なんだから」
雲母と一緒にいつの間にか戻ってきていた七宝は、常とは違う姿の珊瑚を、眼を大きく見張った驚きの表情で無邪気に眺めた。
「珊瑚、綺麗じゃのう。いつもと雰囲気が違って、まるで別人のようじゃ」
仔狐の声に同意するように彼女の愛猫が、みい、と鳴いた。
白地に幾多の色彩が控えめに散りばめられた芽吹き柳の着物は、袖丈が鯨尺で一尺五寸、滅紫の帯には無数の桜の花びらが舞う。
艶やかな髪には紅珊瑚の玉簪。
萌葱や浅縹や黄蘗色の葉が描かれた紅色の半衿が、彼女の瞼に引かれた朱とよく調和し、美しかった。
かごめは足袋や草履まで用意していた。
「あ、ありがとう」
真っ赤になってうつむく珊瑚を満足げに見遣り、かごめは犬夜叉の肩をぽんと叩く。
「黙ってないで、犬夜叉も何か言ってあげたら?」
「たまにはいいんじゃねえか、そういう格好も」
たいして興味もなさそうに言う犬夜叉だったが、彼なりの賛辞のつもりなのだろう。
このように全身をめかし込むのは初めてで、ひどく照れくさかったが、仲間たちの言葉が素直に嬉しく、ほんのりと微笑を漂わせる珊瑚は恥ずかしそうに頬を染めてうつむいている。
「さあ、あとは弥勒さまに見てもらわなきゃね。えっと、弥勒さまはどこに行ったんだっけ?」
うつむき加減の珊瑚を、これも持参したデジカメで、かごめはパシャパシャと写している。
「ああ。ここから乾の方角にある城下町。ちょっと遠いって」
「ふうん。じゃあ、雲母の出番ね」
着飾った珊瑚を見たときの弥勒の反応を見逃すのは惜しかったが、留守番を引き受けた手前、それを放り出すわけにもいかず、まあ知らない町で二人きりでデートっていうのもいいかもね、とかごめは満面の笑みを犬夜叉に向けた。
「な、なんでい」
「ふふっ」
こっちはこっちで犬夜叉とゆっくり過ごそう。
ふと見ると、変化した雲母の前で、珊瑚はまだ躊躇っているようだ。
「珊瑚ちゃん、大丈夫だって。弥勒さま、きっと驚くわよ?」
「でも、やっぱり──」
そわそわと視線を泳がせる珊瑚に、犬夜叉がとどめのひと言を放った。
「そりゃ驚くだろ。どこか他の町で羽を伸ばしてるところへ、留守居しているはずの珊瑚が突然現れるんだからな」
「いっ、犬夜叉……!」
かごめは慌てたが、結果は彼女の望む方向へと転んだ。
「かごめちゃん、犬夜叉、留守番頼んだよっ」
突如、眦をきつくした珊瑚は横座りに雲母に乗ると、ふわりと空へと舞い上がった。
「珊瑚、おらも行く!」
頭に血がのぼると平常心を失う珊瑚を心配した七宝が慌てて雲母の尾にしがみつく。
「大丈夫かなあ」
妖獣に乗った娘と仔狐の姿が次第に遠ざかるのを見送り、何となくつぶやいてみるかごめであった。
2008.3.30.