紅珊瑚の姫 −第二話−
「あの町か?」
「そうみたいだね」
上空を旋回する雲母の上から眼下の町を見下ろした七宝が珊瑚に問うた。
城下町といっても都や大大名の御膝下とは違い、そこそこの町屋や商家、農家が城を取り囲んでいるといった風情の、大きくはあるがのどかな集落だった。
そんな町外れ、人目につかないように地上に降り立った雲母から珊瑚と七宝は軽やかに降りた。
「ところで、弥勒の行き先は判っておるのか?」
「……えっと。知らない」
口ごもる珊瑚に、大人びた仕草で七宝はやれやれとため息をつく。
「一体どうやって弥勒を探し出すつもりだったんじゃ。やはり、おらがついてきて正解じゃった」
「七宝だったらすぐに法師さまの居所が判るのかい? 犬夜叉みたいに匂いで?」
気ばかりが逸って何の考えもなしにここまでやってきたことを気まずく思いながらも、それを七宝のような子供に指摘され、珊瑚はばつの悪そうな複雑な表情を浮かべた。
「匂いなど辿らずも、おなごが騒いでいる場所を探せばよい」
このような城下町、あの弥勒が行き交う娘たちを黙って眺めているだけですむわけがなかろうと、七宝は胸を張って答えたが、珊瑚の表情がどんどんむすっとなっていくのを見て、慌てて前言を撤回した。
「ま、まあ、綺麗なおなごには自然と人の目が集まるものじゃ。それを利用すればよい」
「七宝、あんたさ、一緒にいるうちだんだん法師さまに考えが似てきたんじゃないの?」
呆れた眼で自分を眺めやる娘の視線を受け、仔狐は腕を組んで得意げな表情を作る。
「ふっ。珊瑚もまだまだ読みが甘いのう。綺麗なおなごとは珊瑚のことじゃ」
「あたしっ?」
眼をまるくする珊瑚に、七宝はにんまりと笑んでみせた。
「珊瑚はただ町を歩いていればよい。そうすれば黙っていても弥勒のほうから寄ってくる」
ひどく自信ありげな七宝だったが、仲間の法師のことを、まるで灯火に寄ってくる虫か何かのように言う物言いは何とかならないものかと、珊瑚は小さくため息をついた。
人通りは賑やかであった。
道幅も広く、人の流れも多い。
長身で有髪、袈裟をまとった弥勒の姿は目立つはず。
もしかしたらすぐに彼の姿を視界に捉えることができるかもしれないと淡い期待を抱いていた珊瑚も、人の多さに次第にそわそわとし始めた。
行き交う人々の中に法衣姿の青年はいないかと、落ち着きなく辺りに視線を配っている。
だから、珊瑚は気づかない。
異変に気づいたのは、小さな妖狐であった。
すれ違う人すれ違う人、みながこちらに意識を向けるのだ。
(おらと雲母が妖怪じゃからか……?)
けれど、すれ違ってなお振り返ったままこちらに向けられるいくつもの視線の先が珊瑚一人に集中していることに気づくと、先ほど自分で言った言葉を思い出して納得した。
(やはり美しいものを人は追いかけるんじゃ。それに、今日の珊瑚はいつも以上に綺麗じゃからな)
隣を歩く珊瑚を見上げ、嬉しそうに七宝はやはり並んで歩く雲母へ微笑みかけた。
仔狐の笑顔に応えるように猫又の尻尾がゆらゆらと揺れる。
「のう、珊瑚。みな、珊瑚を見ておるぞ」
「えっ、なんで?」
七宝の言葉に珊瑚は驚いたような表情で彼を見た。
そこで初めて法師の姿以外のものを意識して周囲を見廻してみると、自分を見つめる数多の視線に気がついた。彼女と目が合うと、それら視線の主は、恥ずかしそうに視線を逸らせたり、小さく微笑んでみせたりと、様々な反応を見せる。
「あ、あのさ、七宝。あたし、なんかおかしい? この着物、変かな」
このように華やかな衣はやはり自分には似合わなかったのではと彼女は急に不安に駆られた。
一般の庶民が身につけないような意匠の絹の着物。四角くて長い袂、大きな帯。
そういった、異彩を放つ装いが人の目にどう映るのかがにわかに気になり出した。
ふと見ると自分のほうへ視線を向けている若者数人が、何やらひそひそとささやき交わしている。
「あの……まさかあたし、遊び女──とか、そんなふうに思われて……」
動揺する珊瑚がおかしくて、仔狐はくすりと笑う。
「珊瑚はまるでどこぞの姫君のようじゃぞ? 被衣をかづいで、おらが侍女に化ければ完璧じゃ」
「やめてよ。余計に目立つ」
珊瑚は顔を赤らめ、歩調を速めた。
七宝は人々の注目を集めることがなんとなく得意だったが、珊瑚は一刻も早く法師を見つけ出してこの場を去りたい様子だった。
(しかし)
少し距離を置いて、自分たちの後をついてくる輩を横目で見遣り、七宝は考え深げに眉をひそめた。
(綺麗なおなごに寄ってくるのは弥勒ばかりではないんじゃな)
珊瑚に声をかける機会を窺っているらしい町の若い男たちをどう撃退しようかと思案を巡らせていた七宝は「そうじゃ」とつぶやき、傍らの猫又の耳に二言三言、ささやいた。
突如、雲母が変化する。
「どうした、雲母?」
珊瑚が不思議そうに愛猫を見遣ると、雲母は甘えるように眼を細めて小さく鳴いた。
そんな雲母に微笑み返し、それ以上は気に留めることもなく、珊瑚は再び弥勒の姿を探し始めた。
周囲のどよめきも彼女の耳には入っていないようだ。
可愛らしい小猫が一瞬にして巨大な妖獣に変化した様を目の当たりにした町の人々は驚き、恐れ、足をすくませる。
仔狐の思惑通り、後をつけてきた若者たちも、恐ろしげな妖怪がそばにいては容易く珊瑚に近寄れないようであった。
七宝は自分の企みが成功したことに満足し、少し離れて、珊瑚と雲母が並んで歩く姿を眺めてみた。
昔の何かの絵物語のようだと思った。
楚々とした美しい娘と巨大な妖獣の組み合わせは、たとえば、城の庭をそぞろ歩く伏姫と八房を彷彿とさせる。とはいえ、「南総里見八犬伝」が完成するのはこれから約三百年後のことなので、七宝にもこの町の者にもそんな発想はない。
「あれは……」
一人の若者が通りの向こうを行く珊瑚と雲母に目をとめた。
「どうされました、若?」
連れの男が恭しくその若者に問うと、彼は珊瑚の姿を見つめたまま言う。
「見てみろ、左近、あの娘。あれはただびとではなかろう」
「おお。ほんに美しい娘でございまするな」
「供の一人もいないが、察するに名家の姫君ではなかろうか」
「御意。この辺りでは見かけぬお召し物。もしや、都の公家の姫君では……」
「公家の……なるほど。あの気品。そうに違いない」
若者の名を長野伊織という。
この辺り一帯を治める長野家の嫡男で、つまり彼は領主の若君という身分であった。
数名の従者とともに御忍びで城下へ繰り出していた伊織は、偶然見かけた珊瑚の姿に強い感銘を受けた。
遠目にも際立つ優美さ。
たおやかなのに、どこか凛とした雰囲気。
隙のない身のこなしは優雅で、容貌の美しさ、漂う気品、全てが洗練されて見えた。
よほど高貴な姫君に違いない。
絶えず周囲に視線を巡らせているのは、はぐれてしまった従者でも捜しているのだろうか。
これが普通の町娘であれば、自らも町人に身をやつしている今、気軽に声もかけられようが、相手が名のある武家の、または公家の姫となれば、そのような振る舞いは礼を失すると思われた。
公家の娘はことに気位が高いと聞く。
「おそらく供の者とはぐれたのであろう。まあそれはよい。左近、あのような様子の姫なれば、父上も反対はなさるまい。どのような出自であるか知りたいものだ。すぐに城へ招くぞ」
よく言えば自由闊達、悪く言えば自分本位な性格であるらしい。
「すぐ、と申されましても……」
やんわりとたしなめる側近の言葉を若君は柔和な笑顔で受け流す。
「何も父上に今すぐ会わせようというのではない。あの娘とゆっくり語らいたいだけだ。内密に城へ招き、私の部屋へ通してくれ。私はひと足先に城へ戻り、衣服を改める」
三人いた従者の一人を伴い、あとを左近に任せると、伊織はさっさと踵を返した。
「やれやれ。若は気まぐれじゃ」
苦笑いを浮かべて伊織の後ろ姿を見送る左近に、その場に残されたもう一人の男が応じた。
「しかし左近さま。若はあの娘御を本気で娶るおつもりなのでしょうか。やけにご熱心ですが」
左近はため息を洩らす。
「そのようだな。若も十九。お館さまに早く跡継ぎを見たいとせっつかれておられるからのう」
大きな城下町をいくら歩いても弥勒の姿を見つけることができず、珊瑚は途方に暮れていた。
彼が建物の中にいるという可能性には考えが及ばぬらしい。
「ねえ、七宝、雲母。法師さまの匂い、判らない?」
「いや、おらは犬夜叉ほど正確には……」
雲母の背に乗って渋る七宝に珊瑚はなおも食い下がった。
「正確じゃなくてもいいからさ。それらしい匂いは感じられないかな」
「それらしいというと?」
「うーん。ほら、抹香の匂いとか。あと、女たらしの匂いとか、いかさま師の匂いとか、助平の匂いとか」
「……珊瑚。それでは弥勒を特定できんし、そんなものが判るわけなかろうが」
「じゃあ、風穴の匂い?」
「……どんな匂いじゃ」
それでも雲母は主人の期待に応えようと、鼻をひくひくさせ始めた。
「頼むね、雲母」
法師の匂いを辿るのは雲母に任せ、自身は眼で彼の姿を探す。
疲れ切った七宝は雲母の背にこてんと身をうつ伏せていた。
珊瑚が申しわけなさそうな微笑みを七宝に向けた、そんなとき。
「もし、そこのお方」
不意に重々しい声が背後から投げ掛けられ、珊瑚は歩みを止めて振り返った。
そこには、町人のなりをしているが武士らしい物腰の男が二人と、簡素な輿を担いだ雑兵がいた。
先頭に立つ男が珊瑚に一礼する。
「いきなりの申し出ですみませぬが、折り入ってあなた様にお願いしたき儀がございまして」
「あたしに?」
そこで珊瑚の脳裏に浮かんだのは、妖怪退治の依頼では、ということだった。
過去にもこういった形で仕事の依頼を受けたことがある。
身分ある立場の人間が内密に妖怪を始末したいという理由はいくつも想像できたし、また、そういったことは立ち入って訊かないのが退治屋としての立場をわきまえた礼儀であった。
「解った。だけど、今すぐは困る」
武器も装束も、飛来骨すら持ってきていない今は、たとえ仕事を受けたところでそれをこなせるとは思えない。
珊瑚が難色を見せると、男は慌てたように彼女の言葉を遮った。
「いえ、話を聞いてくださるだけでよいのです。我らは長野家の家臣。城まで同行していただけますかな」
「ああ、急を要するのでなければ、話だけなら。でも、連れが……」
ふと振り返ると、七宝を乗せた雲母はもうだいぶ先を歩いている。
弥勒の匂いに集中するあまり、珊瑚が足を止めたことに気づいていないらしい。
「お連れの方はこちらで捜しましょう。では、こちらの輿へ」
「あの、ちょっと待って。連れはすぐそこに──」
「ご心配ご無用。さ、お履き物をお預かりしましょう」
仔狐と猫又の名を呼ぼうか逡巡したわずかの隙に、珊瑚はあっという間に輿に乗せられてしまった。
やや困惑した彼女だったが、輿を用意するとは、依頼主はよほど秘密裏に事を運びたいのだろうとの考えが浮かんだ。
こちらに連れがいることは向こうも承知しているようであるし、七宝と雲母が弥勒を見つけたら彼らも城へ案内されるだろう。
弥勒と合流すれば、彼に妖怪退治を手伝ってもらい、その間に楓の村に飛来骨など必要なものを取りに行くこともできる。
そこまで考えて、珊瑚はおとなしく輿に揺られ、彼らに従うことにした。
そんな彼女と城の侍らしい男たちとのやり取りを、少し離れた場所から法衣姿の青年が見ていた。
2008.4.11.